アンリ・ド・レニエ『水都幻談』

ゴールデンウィークとはいえ,5 月 1 日の今日は,大企業に勤める私のような社会人には休日だが,妻や学生の子供たちにはいつもの出勤日,通学日。独り家にいて,のらくら,アンリ・ド・レニエ『水都幻談』(青柳瑞穂訳,平凡社,1994 年刊。原題: Henri de Régnier »Esquisses vénitiennes«, 1906)を読んで過ごした。

『都市空間のなかの文学』において前田愛は,『春色梅児誉美』における濹東,鷗外『舞姫』における BERLIN,横光利一『上海』における SHANGHAI など,文学作品と現実・非現実の都市空間(これ自体が文学的で,かなり曖昧な言葉なんだけど)との相互関係を,テクストに即して面白く解き明かしてくれた。東京(江戸),京都,ベルリン,パリ,ペテルブルク,などなど,都市の名は,長い時間にわたって古典芸術の舞台・背景となる間に,幾多の物語,要するに文化,歴史が煮詰まった詩的言語に高められている。

文学的本性が特定の都市の属性と分ち難く結びついている例は,個別作品だけではなく,作家の場合もある。アンリ・ド・レニエにとってそのような都市はヴェネツィアであり,『水都幻談』は,ヴェネツィアという場所の背負う属性そのものが詩であるということに立脚した散文詩集である。散文でも詩になるというのは,つまるところ,そういうことである。ヴェネツィアという記号だけで詩が成り立つ。象徴詩の本質かも知れない。言葉の錬金術とはそういうことなのかも知れない。

げにこは妖しくも美しき不思議なる地にあらずや。その名を聞くだに逸楽と憂愁の想ひ胸に湧く。試みに言ひ給へ,《ヴェネチア》と。されば,月光の沈黙を破りて,玻璃の砕くる音を聞き給ふらん……。《ヴェネチア》と。さればそは,一条の陽光を受けて,絹布の引き裂くるが如し……。《ヴェネチア》と。されば五彩は入り混じりて,変りやすき澄明の一色となるかに見ゆるを。魔法と奇術と幻覚の地にあらずや。
アンリ・ド・レニエ『水都幻談』青柳瑞穂訳,平凡社,1994 年,37-8 頁。

「試みに言ひ給へ,《ヴェネチア》と」— これで満足できることの意味を考える。これこそ詩である。わかる人にはこれだけで詩になり,心が沸き立ち陶酔さえできるのだが,わからない人には永遠に何の意味もない。わかることが先か,わかるための説明が先か。鶏が先か,卵が先か。『一世紀前の隣人へ』と題する本書の解説で,矢島翠は開口一番にこう記す —「だれもが自分自身のヴェネツィアを持っている」(同書,169 頁)。だれもが自分自身の川崎市を持っている,と言い換えてみる。そんなわけないだろ,とすぐわかる。川崎市という名称は,川崎市民の私にとってこそ「さまざまのこと思ひ出す桜かな」の桜であるが,川崎市民でない人にとってはただの政令指定都市名である。

でも,このバカらしさ(霊感商法的詐欺まがい)をバカにしてはならない。だって,これは「ヴェネツィア」という言葉自体が,多種多様な意味論的陰翳を担う「詩的言語」なのだ,と言っているからである。さまざまのこと思ひ出すヴェニスかな。レニエにとってのヴェネツィアは,現前の風景としてというよりもむしろ,ロンギ絵画などに現れた十八世紀文化のフィルターを通して眺められている。ああ,ヴェネツィアに行きたい。

ああ,ヴェネツィアに行きたい。「だれもが自分自身のヴェネツィアを持っている」— そのとおり。私にとっては,トーマス・マン,ルキノ・ヴィスコンティの『ヴェニスに死す』の頽廃的文学・映像であり,ヴィヴァルディの官能的音楽である。『水都幻談』を読み,精巧なるヴェネツィア玻璃細工,錯綜する水路とゴンドラの水遊び,幽邃たる水辺の霧に霞むサン・マルコ寺院,仮面を着け謎めいて妖しい黒衣の女,などなどを想像しながら,ヴィヴァルディのトリオ・ソナタ,コンチェルト・グロッソを聴いた。めくるめく対位法。果てしなく優美にして官能的なヴィヴァルディ。サルヴァトーレ・アッカルドのヴァイオリン他の演奏による作品 1,クラウディオ・シモーネ指揮イ・ソリスティ・ヴェネティの演奏による作品 3『調和の霊感』,作品 10 から『四季』。

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クラウディオ・シモーネ指揮イ・ソリスティ・ヴェネティの演奏によるヴィヴァルディ全集 ERATO CD(作曲家の生前に出版された作品の集成であって,文字通りのヴィヴァルディ全集ではないことに注意されたい)のリンクを設置しておきます。彼らはヴィヴァルディの同じ作品,たとえば作品 3 を二度にわたって録音しているが,思うに,旧いこの盤のほうが優れている。新しい録音がよいとは限らない。

ヴィヴァルディ:作品全集
クラウディオ・シモーネ(Dir)
イ・ソリスティ・ヴェネティ
ダブリューイーエー・ジャパン (1999-05-26)