宵月・フランク

暖かい日が続く。会社からの帰り,いつものとおり最寄りの一駅前から歩く。今日は少し曇って,夜の八時少し前,歩きながら西空を眺めると,没する前の朧な宵月。不吉な感じだった。

と,かつて観た怪奇趣味の真面目なテレビドラマで,大きな三日月が真夜中に天高く出ているシーンがあったのを思い出し,笑ってしまった。何がおかしいのかというと,三日月は,朝七時前後に東の空に昇り,真っ昼間は天の高いところを移ろうも,太陽の強烈な明かりで見えず,夕方になって西の空の低いところにようやくその姿を拝むことが出来るわけで,夜九時くらいには沈んでしまう。つまり,真夜中に天高くに眺めるなどできやしないのである。小説・映画なんかで,こういうありえない自然描写に出くわしたら,「ウソつけ」と鼻で嗤いましょう。(*)

かくして,現代人の月に対する感覚は抽象的で現実感に欠けることがある。それだけに,いっそう,芭蕉の俳文などでは月の姿と季節・日時の情感とが極めて正確に照応しているのに感銘を覚えてしまうわけなんである。

(*)翻訳小説ではしょっちゅうこの「三日月」誤訳が認められる。たとえば。

目ざめると,夜はだいぶ更けているようすだった。ほのかな外の明るみが,冬のあけがたのように,窓の四角をカーテンに映していた。私は起きて行って,少しの間カーテンを一枚開けた。日の出はまだ遠かったが,嵐はすっかりおさまっていた。三日月が,いまやたいそうゆっくりと流れて行く晴天のふうわりとした大きな雲の緑をほの白く照らしながら,無人の渚のような広々とした空を渡っていた。
ジュリアン・グラック『コフェチュア王』—『半島』所収
中島昭和・中島公子訳,白水社,1979 年,262 頁。(強調は筆者)

ジュリアン・グラック『コフェチュア王』の,一夜のゆきずりの情事のあとの美しい描写。「だいぶ更けて」「ほのかな外の明るみ」の認められるこの未明の霽れきった月は,「三日月」というより「有明月」というべきである。ここで作家は croissant あるいは crescent という,「形」に着目した月の名称を用いているに過ぎないわけなのだろうが,訳者が日本人の読者に対してこれを「三日月」(未明に空を渡るなんてことはありえない)と訳してしまうと,非現実性を植え付けて白けさせてしまう。ため息が出るほどに美しいグラック作品が大好きなだけに,少々残念。

半島 ((世界の文学))
ジュリアン・グラック
白水社
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晩飯を食い,皿洗いをしたあと,書斎でセザール・フランクを聴く。交響詩『プシュケー Psyché』とピアノ五重奏曲ヘ短調。César Franck - Psyché / Le chasseur maudit / Nocturne, Daniel Barenboim (Dir), Orchestre de Paris, 1976 年, 独 Deutche Grammophon 輸入盤と,César Franck / Gabriel Pierné / Louis Vierne - Quintettes avec Piano, Jean Hubeau (Pf), Quatuor Viotti, 1985 年, 仏 ERATO 輸入盤。

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『プシュケー』は第一部の「プシュケーの眠り」なる題名のとおり,夢見るようなじつに美しい旋律が魅力的である。ピアノ五重奏曲は熱情的なテーマのアレグロと静かな抒情的アダージョとで,古今のピアノ五重奏曲のなかでも一番のお気に入りである。こんなにも優雅で哀しいリリシズムにはめったに出逢えない。フランクは交響曲ニ短調,ヴァイオリン・ソナタが有名であるが,ちょっとマイナーな作品も第一級の質を有している。私の愛聴するアナログレコードの演奏・録音は,いまも CD で入手できる。アマゾン・リンクを設置しておく。ぜひお聴きください。

フランク:交響曲、交響詩「プシュケ」
ダニエル・バレンボイム (Dir)
パリ管弦楽団
ユニバーサル ミュージック クラシック (2012-05-09)
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米国ボストンの爆発事件。テロかとの話も出ている。まだそう判断するには早計のようである。

北朝鮮,相変わらず。北の挑発と,日本の円安による国際競争力復活とで,韓国経済は今後停滞すると私は思う。老齢化がこれに拍車をかける。アベノミクスには国債暴落の危険性がプンプンで,大いに疑問があるのけれども,ウォン安で国際市場を韓国に奪われまくっていた日本は,半導体とか,液晶とかでも,もしかすると復活するかも知れない。シャープも息を吹き返したりして。そうなると,確かにアベノミクスも評価できるかもしれない。わが国の震災につけ込み,中国に寝返った韓国は,落ちて行けばよい。