Lamenta エレミア哀歌・滅びの記憶

三月初二。陰。晏起シテ曝書ス。春風ナホ料峭。晡下横濱福富町ヲ逍遙シ,初更元町ニ飰ス。— 荷風ならこんなふうに記す一日なんだろう。けれども,休日は晏起,つまり昼まで寝ているばかりが,私の荷風との共通点である。お午を食べたあと,『断腸亭日乗』を少し読み,曝書 — 書物の虫干しをすること — ならぬ,CD・アナログレコードの棚卸しをした。ホコリを払い,向こう何日かに聞き込む盤を選び,オークションに出せそうなブツを吟味する。死蔵していた盤で,かつて聞き惚れたものを見い出すと嬉しくなる。失われていた記憶が甦るような心持ち。

The Tallis Scholars の合唱による『Lamenta - De lamentatione Ieremiae prophetae エレミア哀歌』 の CD はそうした「掘り出し物」の一枚。Thomas Tallis,Palestrina など 16 世紀の作曲家たちが遺した『エレミア哀歌』を集めたものである。声だけの霊的な響きに,心が洗われ,癒される。

Quomodo sedst sola civitas
plena populo:
facta est quasi vidua
domina gentium:
princeps provinciarum
facta est sub tributo.
あゝ哀しいかな古昔は人のみちみちたりし此都邑
いまは凄しき樣にて坐し
寡婦のごとくになれり
嗟もろもろの民の中にて大なりし者
もろもろの州の中に女王たりし者
いまはかへつて貢をいるゝ者となりぬ

西洋人は,思うに,直面する大きな問題を聖書の物語の表象で読み解こうとする。繁栄の街の滅びへの徴候を認めると,ソドムとゴモラを,顧みたゆえに鹽柱に化したロト妻を,そして,このエレミアの哀歌を想起し,神の言葉に照らして採るべき道を択ぶ。そのように,滅びの記憶を共同体(素朴な人々から知識人まで)で共有している。日本人はどうだろうか。

『エレミア哀歌』は,いうまでもなく,旧約に収められている。上の引用は,私の手元にある日本聖書協会『舊新約聖書 ― 文語訳』1991 年版からのもの。文語訳では『ヱレミヤの哀歌』となっている。