「二月七日。風吹きて寒し。堀口大学訳著『パリュード』美装本を寄贈せらる。午後揮毫数箋」云々。永井荷風の『断腸亭日乗』,昭和六年の記事にある。先週末ことのほか暖かくなったと思いきや,今週は雨もよいの寒い日に逆戻り,昨日,今日は,烈風に身が堪える,ちょうど荷風が八十一年前のこの日について書きしるしたような余寒の候である。いま『断腸亭日乗』を通勤電車で再び読んでいるところなのだ。この日本の空気が嫌で,嫌で,嫌で仕方のない昨今,同じような沈滞と不穏の世相について慨嘆をしるした荷風の心境と孤独とに,大いに惹かれるからこそ。
QMS(品質),EMS(環境)及び ISMS(情報セキュリティ)の各マネージメントシステムの内部監査員を命ぜられ(部内に監査員資格のある者が少なすぎるんである),二月七日,霞ヶ関の事務所から江東区東陽町の本部ビルに出張した。チェックリストに従って猛スピードで監査を行い,被監査部署に対して不適合も改善機会も指摘をせずに済み,予定より一時間も早く監査対応を終わらせた。監査チームリーダーである私はもう一人の監査員に監査実施報告書を書いてメールで送るよう指示して,— 荷風のよく使う言葉でいえば — 晡時(夕方四時ごろ)ビルをあとにした。
東陽町に出張すると,帰りは砂町から木場まで歩くことにしている。永代通りもしくはその裏手を並行して通じる洲崎川緑道公園(遊歩道)を日本橋方面に向って行くのである。通りから逸れると深川の旧い街並がかすかに残っている。この日はバッハのゴールドベルク変奏曲を聴きながら歩いた。東陽三丁目の交差点に来たとき,かつて洲崎遊郭のあった界隈をぶらぶら散策しようかと思いついた。
東大周辺地に相応しからぬ遊郭が根津から移転させられて来た明治二十一年より,売春禁止法が施行された昭和三十三年ころまで,この洲崎界隈(現在は江東区東陽一丁目)は新興埋立て地の遊郭・カフェーの歓楽街として賑わったという。『断腸亭日乗』にはこんなくだりがある。
午後中洲に徃く。帰途新大橋を渡り電車にて小名木川に至り,砂町埋立地を歩む。四顧曠茫たり。中川の岸まで歩まむとせしが,城東電車線路を踰る頃日は早く暮れ,埋立地は行けども猶尽きず,道行く人の影も絶えたり。折々空しき荷馬車を曳きて帰来るものに逢ふ。遠く曠野のはづれに洲崎遊郭とおぼしき燈火を目あてに,溝渠に沿ひたる道を辿り,漸くにして市内電車の線路に出でたり。豊住町とやらいへる停留場より電車に乗る。洲崎大門前に至るに燦然たる商店の燈火昼の如し。永代橋を渡り日本橋白木屋前にて電車を下る。
人影の絶えた四顧曠茫たる埋立ての曠野,その果てに愛欲の渦巻く遊郭の燈火を茫漠と臨む情景は,荒涼として異様である。いまはまったくその面影はない。この描写から私は,幼いころ家族で琵琶湖畔に遊びに行く途中真っ暗闇の湖西路を車で走っていると,煌々たるネオンに目も眩む雄琴トルコ街(「ソープランド街」と言わないと,いまの人にはわからないかも知れない)が忽然と現われすぐさま消え失せてしまう光景を思い出した。「お父ちゃん,いまの何や?」—「遊郭や。知らんでええ」。「ユウカクって何や?」。
寒い。やっぱりこの寒風に煽られながらは堪えるし,まだ勤務時間ということもあり,旧洲崎遊郭界隈の散策はやめ。洲崎神社で柏手を打ち,隅田川に合する溝渠を舟宿側の小橋から眺めるだけにし,東京メトロ東西線・木場駅から地下鉄に乗って霞ヶ関の事務所に帰った。
電車のなかで荷風を読み,歩きながらバッハを聴く。これがこのところの私の習慣である。四顧曠茫か。私の人生はこのまま腐り果てて行きそうな気分である。この日のゴールドベルク変奏曲は鈴木雅明のチェンバロ演奏のもの。チェンバロの音色・質感が,旧いオルゴールに耳を傾けているようで,ノスタルジックなんである。J. S. Bach - Goldberg Variationen, BWV 988. Masaaki Suzuki, harpsichord。1997 年,スウェーデン BIS 輸入盤。