十六夜,韓国女性大統領,モーツァルト

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今日も JR 横須賀線・武蔵小杉駅で降車し,新川崎の自宅まで歩いた。高層マンションの狭間の路地から日本電気・多摩川事業所側の踏切に出たとき,東の空,三十度くらいの角度の位置に,巨大な皓月。今宵は十六夜。ここ濁った街・川崎でも,澄んだ寒気で星がたくさん見える夜。空を見上げながら歩くうち,昼に会社の PC で見た「朴・新大統領就任」の日経BPオンライン記事がふと頭をよぎる。

初の女性宰相誕生というのは,日本の先を行こうかという韓国の国情成熟の象徴のように思われる(日本も,韓国も,女性蔑視が酷いわけだが)。しかし,韓国が全く新しい,激しい政治的転換点にあることの証左でもある。いまや韓国は,どうも,全く頼りにならない米国・心情的に憎たらしい日本とは縁を切り,経済においても,安全保障においても,中国の属国化めがけてまっしぐらに駆け出してしまった感がある。経済の躍進で自信を深めた韓国は,歴史的に染み付いた植民地根性というか,日本を見下したくてたまらない国民性ゆえに,経済低迷の上に東北大震災で弱った日本の国情につけ込み,歴史問題でこれまでの一線を越え天皇陛下を侮辱し,日本との通貨スワップ・軍事協定を止めた。外貨準備において常に不安を抱える韓国はこれからは中国との通貨スワップをあてにすればよいのだ。そして,なんと軍事協定まで中国と締結してしまった。先日の北朝鮮のミサイル発射・核実験の成功によって,人工衛星も飛ばせない韓国は,北に対して軍事的に決定的に敗北する事態になった。北とうまくやるにもその親分である中国が頼りになる。これで,かつて日・米と共有した軍事機密が中国に筒抜けになるわけだ。よって,わが国にとっては敵国となった。もはや韓国は中国の属国である(もともと朝鮮半島は中国の属国だったので,旧に復するわけである)。これは韓国にとってある意味で正しい選択かも知れない。あるいは,歴史的禍根を残す因になるかも知れない。

韓国は米国から中国に寝返ってしまった。この構造的変化によって,日本がいよいよ厳しい道を歩まなければならなくなったのは間違いない。斜陽国家の身の程をわきまえず無謀にも中国と口先で対立する情勢にあって,これで日本は東アジアで文字通り孤立させられる(この「東アジアで孤立」というコトバは誤解を恐れずにいえば,中国・韓国から除け者にされる,ということである。ありがたいことに,グローバルにおける日本の好感度は中国・韓国を圧倒的している)わけだから。こうなるとロシア,北朝鮮をうまく使うしかないのに,日本の政治家・外務官僚はどうも地政学を軽視しているようである。ま,森・元総理がプーチンに会ったのは,日露関係のよい兆候ではある。私はアベさんが大嫌いだが,それでも日本代表なのだから,この国難にあっては支持したいと思う。

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帰宅して,モーツァルトの弦楽五重奏曲 K.515 ハ長調と K.516 ト短調を聴く。英国 L'Oiseau-Lyre レーベルから出たアナログレコード。モーツァルトの弦楽五重奏曲は,ヴィオラを二本使うところが特徴である。瀟洒軽快。オランダ — このレコードが出た 1980 年代初頭,古楽演奏のニューウェーブ発祥地はオランダであった — のバロックヴァイオリンの名手,ヤープ・シュレーダー率いるエステルハージ弦楽四重奏団とヴィム・テン・ハーヴェのヴィオラとによるオリジナル楽器の演奏。楽器自体の旋律線は華奢だが,アンサンブルとしてふくよかさ,暖かみを生み出す。ヴィブラートを抑えた伸びのある弦の音線の明快な絡み合いが清冽な構造感を感じさせる好演である。

ところで,安部公房はモーツァルトやオペラを毛嫌いしたと,彼の友人だったドナルド・キーンがどこかで書いていた。また,一方で,彼はバロック音楽,現代音楽を好んだ,とも。この大作家にとって,何もかもが不安定のボーダーレスな現代にあって,あの十八世紀・ロココ調の,美学的評価の定まった優美な音響が,「プチ・ブルジョワ趣味的紋切型」の代表のように聞こえたからか。私は勝手にそう思っている。なぜなら,安部公房と同じように,若いころ,モーツァルトの「美しい音楽」を嫌い退屈に感ずる一方で,バッハと現代音楽を好んだ私は,まさにそのように考えていたからである。堂上にある「クラシック音楽」が嫌いだった。否,堂上に胡座をかく「クラシック音楽愛好家」が嫌いだったといった方がよい。

小学校高学年から中学・高校生にかけて私はロックに夢中だった。ビートルズ,ボブ・ディラン,クイーン,ゼッペリン,イーグルス。古典音楽については,学校の音楽教室で聞かされたバッハ,ヴィヴァルディに惹かれる程度だった(「クラシック」というより古楽か)。高校の同級生に,モーツァルト,ベートーヴェンが好きというクラシック音楽ファンがいた。金持ちの息子で,育ちのよい見栄坊だった。彼は,ロックや歌謡曲(いまならJPOPと称するのだろうが,当時はポップスといえば,洋モノ「軽音楽」のことだった)をコキ下ろし,ロックやポップス,歌謡曲のような「低級な軽音楽」のファンを見下す,イヤ味な野郎だった。

大学に入り,バッハ音楽にハマるようになって,新譜情報を求めてときには『レコード藝術』なんかをも読むようになった。ところが,そこには「わたくしはこのピアニストの盤に針を落とすたび,その精神の崇高さに身を引き締められる思いに駆られる」なんて,心底アホな戯言しか書かれていなかった。日本のクラシック音楽愛好家の書く音楽コラムは,概して音楽とは無関係のこの手のゴタクばかりである(私も他人のことは言えんが)。彼らは音楽を楽しんでいるのだろうか,それとも,「精神」云々とやらの修身的所作が好きなんだろうか。

クラシック音楽は,文化的に正当化され毒抜きされた,「お上品なご趣味で」の,堂上にあるジャンルである。『レコード藝術』コラムニスト先生のように,それを「精神の崇高さに身を引き締められる」などと陶酔して有難がったり,私の同級生のように,評価の定まった安全な場所から「軽音楽」の同時代的混沌を見下す — クラシック音楽愛好は,そんなプチ・ブルに相応しい趣味趣向である。— と,若いころは思っていた。こうして,「クラシック音楽愛好家」が嫌いだったといった方がよい。いまはそうでもない。他人の趣味なぞ,どうでもよくなったからである。

エステルハージ弦楽四重奏団の演奏による弦楽五重奏曲 K.515 ハ長調と K.516 ト短調の盤は,現在では入手が困難なようである。オリジナル楽器演奏で,かつ入手しやすい CD をあげておきます。

モーツァルト:弦楽五重奏曲第3番・第4番
寺神戸亮,クイケン四重奏団
コロムビアミュージックエンタテインメント (2007-12-19)