昨日 2 月 23 日,上野・東京都美術館で開催中のエル・グレコ展を観て来た。日本では四半世紀ぶり,かつこれまでで最大規模のエル・グレコ回顧展だそうである。サン・ニコラス教区聖堂の巨大な祭壇画『無原罪のお宿り The immaculate Conception』までもが海を渡って日本にやって来たのである。スペインの古典絵画を目の当りにするのは,1980 年だったか,まだ高校生のころ,大阪・心斎橋の大丸デパートで開催されたベラスケス展以来である。
(いずれも一部。図録より)
樟んで暗く,どこかドロドロした人間臭さを発散する古いスペイン絵画。今回のエル・グレコを観て,まさしくそのような黝然たる色調に懐かしさを覚えた。あの,暗くどぎついといってもよい赤と青は,画集で見ると野蛮さすら感じられるのだが,薄暗い美術館の光彩の下で実物を見上げると,この赤,青,そして緑と,背景を覆う黒とが,何とも,ねっとりと黝く美しい。聖化された猥雑を感じる。描かれた手,指の形状,目の表情など,私は図像学的な詳細に詳しくないのだけど,その意味深い劇的性格に打たれた。
エル・グレコの生きた,16 世紀から 17 世紀にかけてのスペインは,絶対王政の時代,反宗教改革の機運の強い国情だったわけだけど,イタリア・ルネッサンス絵画にも認め難い「人間臭さ」がエル・グレコの宗教画にはある。『聖アンナのいる聖家族』の乳房をキリストに含ませるマリア,おちんちんを露にする赤子=キリスト(画像左)や,『悔悛するマグダラのマリア』のベールに乳首が透けて見える悩まし気なマグダラのマリア(画像右)。
このように,キリスト教でもっとも高位の聖性を有する神的人物像において,エル・グレコほど人間的「肉」の側面が印象付けられる古典絵画を,目にした記憶がない(ギリシア神話の神々の裸体は,いくらでも例があるけれど)。マリヤの胸にくれなゐの乳頭を點じたるかなしみふかき繪を去りかねつ — 葛原妙子の歌はエル・グレコのマリアだったに違いない。
今日の 24 日,日曜日,歩行運動をかねて川崎中央郵便局まで歩いて往復した。やはりオークションで売っぱらった CD を発送するため。ここ数ヶ月,毎週末,妻と自宅から JR 川崎駅周辺まで散歩するのが習慣になっているが,今日はそれぞれの用事のために別行動。私は一人で,音楽を聴きながら歩いた。
川崎市幸区塚越の南武線踏切側で,今月 4 日,5 歳の女の子がトラックに跳ねられ死亡した。新聞によれば,母親が子供二人を自転車の前後に乗せて走っていたところ,前から来た自転車を避けようとして急ブレーキを掛けたときにバランスを崩し,後部にいた女の子が車道に投げ出された。あとは想像するばかりである。妻も二人の子供が幼いころ自転車に乗せ,何度もヒヤっとすることがあったという。事故が起きたのは,四叉路の踏切の側。遮断機に止められる前にこれを越えようと意識が踏切に集中するはずである。歩道も極めて狭く,しかも沿道の家屋の出入りのために昇降が激しい構造になっている。誰が悪いのか。急ブレーキの契機となった自転車の乗り手か,トラックのドライバーか,三人乗りをしていた母親か。わからない。こんな傷ましい話はない。たくさんの花束,お菓子が供えられていた。アンパンマンの絵の入った菓子パッケージ。TPP 問題より,尖閣諸島問題より,年間交通事故死者一万人,年間自殺者三万人,年間幼児虐待報告六万件のほうが遥かに深刻である。これらは関係者すべてを含め,件数の何倍もの不幸な人間を生み出す。古典悲劇のように登場人物すべてが破滅的事態に追い込まれるのである。
川崎中央郵便局で用事を済ませたあと,第一京浜(国道 15 号)を挟んでその向いにある稲毛神社に立ち寄った。ここには芭蕉の「秋十とせ却って江戸をさす古郷」,正岡子規の「六郷の橋まで来たり春の風」の句碑がある。それぞれ没後 300 年,100 年を記念して建てられた。いずれも六郷(多摩川の川崎宿あたり)に因む句で,この地が江戸ないし帝都と西とを隔てるマージナルな「境界」の歴史的トポスであることを示している。入口・出口という「境界」においては,人はいろんな表象に動かされるものである。
稲毛神社には樹齢一千年以上といわれる御神木大銀杏がある。太平洋戦争中に川崎が米軍による激しい空襲に曝され焼け野原になるも,生き延びたという曰く付きである。銀杏はその幹の形状から子授けのシンボルであり,しかも太古からいまに長らえる銀杏となると,霊験あらたかであるに違いない。大銀杏の周囲に十二支のブロンズ像があり,私の干支である寅(というか,写真のとおり,寅というよりカバである)の前で学芸向上 — てゆうか,もっとアタマが冴えて金儲けができますように... — の願をかけました。
稲毛神社は川崎市役所のすぐ裏手,稲毛通りを挟んだところにある。この稲毛通りを少し入ると川崎陋巷・堀之内に通じる。市役所のすぐ裏手に日本有数の色街があるというのも川崎の面白いところである。一時間半,郵便局に立ち寄った以外ずっと歩きっぱなしで帰宅した。携帯電話のアプリによれば,14,032 歩,10.2 km,313.0 kcal の歩行記録だった。これくらい,最近は屁のカッパである。
今日歩きながら聴いたのは,ドビュッシーとラヴェルの声楽曲。先日楽しんだピエール・ルイス詩の朗読付随音楽 Chansons de Bilitis とは別バージョンの,ドビュッシー作曲ソプラノとピアノのための『ビリティスの歌からの三つの詩』,ダンテ=ガブリエル・ロセッティ詩による女声,合唱と管弦楽のための『選ばれし乙女 La Damoiselle Elue』。そして,ラヴェル作曲ソプラノ,ピアノと弦楽四重奏のための『ステファヌ・マラルメの三つの詩』。手がかじかむ寒さのなか,春を待ちわびる気分に浸った。ドビュッシーも,ラヴェルも,大いに文学的資質に富む作曲家であって,私はそのオーケストラ作品よりもむしろ声楽曲(そして室内楽)のほうが好みである。音源となった私のお勧め CD のアマゾン・リンクを設置しておきます。
Frederica von Stade, Gérard Souzay, Dalton Baldwin
EMI Classics (1992-01-23)
ドビュッシーの歌曲集のレコードは,出てはすぐ消えてしまう。どうしてかはわからない。私は『ビリティスの歌からの三つの詩』については,EMI から出た上掲のドビュッシー歌曲全集 CD に収録された,ミシェール・コマンのソプラノとダルトン・ボルドウィンのピアノによる演奏が好きである。『パンの笛』の次のピアノの出だしからうっとりとさせられる。
Brigitte Balleys (Récitante)
Claudio Abbado (Dir)
London Symphony Orchestra / Chorus
Polygram Records (1990-10-25)
これは『選ばれし乙女』の麗しい演奏 CD。まだ手頃な価格で中古品を入手できる。『牧神の午後への前奏曲』,『管弦楽のための映像・第二番イベリア』も収められている。ロンドン交響楽団のクセのない管弦楽とマリア・エウィングのソプラノが素晴らしい。
Rudolf Jansen (Pf)
Quatuor Viotti
RCA (1990-10-25)
エリー・アメリングのソプラノによるラヴェル歌曲集。通常,ソプラノと管弦楽で演奏される『シェエラザード』はこの CD ではピアノ伴奏になっている。これも,ルドルフ・ヤンセンのピアノ,ビオッティ弦楽四重奏団との共演『ステファヌ・マラルメの三つの詩』も,アメリングのふくよかな声による RCA 盤が私にとってのベストである。