今日はお休みだった。郵便局に荷物を出しに行ったほかはずっと家で過ごした。妻は仕事,子供たちもアルバイト。雨水,土脈潤ヒ起ル初候,晏起シテ獨リ,荷風散人ノ書ヲ讀ミ,樂音ニ耳傾ケ,猫ト戲ル。
いつもは会社に急ぐあまり自宅周辺の様子に眼を留める余裕はない。郵便局に往く途中,お隣の旧家の庭先に紅梅が咲いていた。満開である。そういえば,初旬に妻が「お隣の紅梅がほころびはじめてきれいね」と言っていたのを思い出した。郵便局でゆうパック発送を依頼し,支払いの段になって,家に財布を忘れたことに気付いた。取りに戻る。帰るさ,駅前の喫茶店にでも寄るかと思ったが,オークションで 500 円で売ったオンボロ・ノートブック・パソコン(日本 IBM 製 ThinkPad X20 英語キーボード付)を発送した直後に,無駄遣いするのも愚かしく思われ,踵を返して帰宅した。書斎の窓辺でインスタントコーヒーを啜りながら,音楽を聴いた。
ピエール・ルイスの原稿,ルイス宅のドビュッシー
カップのなかでブラックコーヒーの濃褐色に湯気を通して午後の空の深い青が搖漾と映じていた。吉か,凶か,これから起こる何かを判ずるような,春めいた気分。
今日はそれに相応しい,フランスの瑞々しい室内楽。ラヴェルの『序奏とアレグロ』,フルートとハープのための編曲版『亡き王女のためのパヴァーヌ』,『ヴァイオリンとチェロのためのソナタ』,ドビュッシーの『シランクス』,『フルート,ヴィオラとハープのためのソナタ』,そして『ビリティスの歌』,1990 年,ドイツ・グラモフォン CD を選んだ。アンサンブル・ウィーン=ベルリンの器楽演奏とカトリーヌ・ドヌーヴの朗読による珍しい録音である。
収録曲はいずれも極上の室内楽である。このアルバムの聞き所は,何と言っても,女優カトリーヌ・ドヌーヴが朗読を担当している『ビリティスの歌』。この作品は,ピエール・ルイスの詩の朗読のための付随音楽である。ドビュッシーは詩人の友人だった。
ギリシア的清澄に富んだエロティックな詩がルイスの作風で,『ビリティスの歌』はそれをもっともよく顕す代表作といえる。いま新作でこの手のものが発表されたのなら,児童ポルノグラフィーの嫌疑をかけられかねないような作品である。
付随音楽をドビュッシーに依頼したピエール・ルイスは,朗読リハーサルの間ずっとヌードの美女たちと楽しい時を過ごした,と家族に書き送っている。「牧場の歌を歌わねば/夏の風の神,パンに祈りを捧げねば」にはじまる明るく澄んだポルノグラフィーに,ドビュッシーは透明感溢れる,優美で,軽やかな間奏曲を付けた。「溜息が出るほど美しい」とは,思うに,こういう音調を言うのである。
Parfois, nous comparons ensemble nos beautés si différentes, nos chevelures déjà longues, nos jeunes seins encore petits, nos pubertés rondes comme des cailles et blotties sous la plume naissante. |
私たちは時どきお互いをくらべ合う それぞれに違った美しさを もう長くなった私たちの髪 まだ小さな私たちの胸を 羽根も生えたてで円くうずくまる うずらのような私たちの陰の丘を |
Polygram Records (1991-01-18)