Facebook 友人,スイス在住のロシア人から依頼を受けた。宮本武蔵の名言の英訳: "Under the sword lifted high, There is hell making you tremble. But go ahead, And you have the land of bliss." の原文が知りたい,とのことだった。
書架から『五輪書』,といってもその原文,現代語訳及び哲学的解説からなる鎌田茂雄著『五輪書』(講談社学術文庫,1986 年)を引っ張り出して来て,上記英文に該当すると思われる宮本武蔵の文言を探しまわった。ところが,『五輪書』原文,すなわち,地・水・火・風・空の五巻,兵法三十五箇条,独行道を何度か速読で探しても,それらしいくだりが見当たらない。hell とか the land of bliss とかあるので,地獄,極楽みたいな文言に注意したが,武蔵は剣術の核心についてそんな抹香臭い喩えをどこにもしていない。
本書をいちから斜め読みしたら,あった。
つぎの歌を見よ。
振りかざす太刀の下こそ地獄なれ
一と足進め先は極楽
武蔵は岩の上で徹宵の坐禅に入った。彼は仏になることに全精力を傾注した。夜空は満天の星が輝いていた。武蔵は半眼を開いて星を見た。この天地乾坤の大宇宙が庭に見えた。自分は天地の外に超然としていることを悟った。しかしまだ仏の姿は見えなかった。
おお,これこれ,この「振りかざす...」和歌こそが,英文の元ネタとしてピッタシカンカンじゃねえか? さっそくネットで歌の出典,要するに,宮本武蔵がどこでこれを書きしるしたものかを調べてみた。ところがどこにも確からしい情報がない。鎌田氏の書きっぷりからして歌の作者は宮本武蔵らしいし,そもそもこの英訳は宮本武蔵の名言として流布しているようである。でも,先に記したように,『五輪書』ほかを見渡してもこの和歌は見当たらず,武蔵作説はどうも怪しい。
鎌田氏のこのくだりは,よく読むと,「つぎの歌を見よ」というのみで,これが宮本武蔵自身の歌だとはどこにも書いていない。紛らわしくないか。ま,宮本武蔵の悟りについて,鎌田氏は「見て来たような」なんとやらの筆勢を駆っているからして(まるで吉川英治),眉にツバをつけるべきなのはすぐわかるというものである。友人にはこの歌の日本語を教えた。もちろん,「これが武蔵のものだというのは疑わしい」と但し書きをつけた。
『五輪書』は日本の武士道を学ぶに避けては通れない名著とされる。私も読んで感心させられたが,とうてい真似できない。どうも私には無縁である。宮本武蔵はこの書で剣術の精神論,実践論を披瀝しているのだが,剣術とは,究極,人を斬ることだ,と言い切っているところがなんとも凄い。地獄も,極楽も,宮本武蔵にとっては,どうでもよいことなのである。
有構無構といふは,太刀をかまゆるといふ事あるべき事にあらず。[ ... ] 太刀は,敵の縁により,所により,けいきにしたがひ,何れの方に置きたりとも,其敵きりよきやうに持つ心也。[ ... ] 然るによつて,構はありて構はなきといふ利也。先づ太刀をとつては,いづれにしてなりとも,敵をきるといふ心也。[ ... ] 何事もきる縁と思ふ事肝要也。能々吟味すべし。