AKB48

テレビに AKB48 が出て来ると,妻は彼女たちを腐しまくる。人の悪口をめったに口にしない妻には珍しい。十代半ばの娘さんを集め,芸を仕込んで働かせ,それで大いに稼いでいる秋元さんが女衒じみて許せないらしい。そんな AKB48 が世の中の寵児になり,社会現象にもなり,総選挙だの,じゃんけん大会だのもてはやされる世相にも呆れている。妻曰く「AKB なんて,オニャンコとおんなじで,あんなオヤジに唆されて。さっさと落ち目になればいいのに。それでAV女優にでもなればいいのよ!」。「おいおい,そりゃあ,AV女優に失礼じゃないの?」と私。「テレビに出て来るアイドルは人好きのする容姿と個性的キャラクタを演出できれば成り立つとも言えるけどね,AKB の女の子たちは脱いだらどっちらけかも知れないね。AV女優は『脱いでもスゴイ』以上の,もっとシビアな,もっと困難な,一線を越えたプラス・アルファが要求されるからなぁ」— いや,これを口に出すのはやめました。

娘の高校の学園祭などに行っても,AKB48 の物まねをして歌って踊っている女子生徒たちのステージが必ずある。高校生はホント AKB48 に夢中なんだと実感する。「何であんなに人気があるの?」と娘に聞くと,「AKB48 には,自分も頑張ればあのなかに入れそうな感じがあって,目標にできるアイドルだからだと思う」と言っていた。ま,確かに AKB やら SKE やら NMB やらには,私なんかには区別が付かないくらい群小アイドルの娘さんがたくさんいて,「一人で輝くのは無理にせよ,アイドル『群』にならなんとかアタシだって」の幻想を掻立てていることが,人気のヒミツというのか。

私の会社の若い部下にも AKB の好きな者がある。彼女(そう,女子社員である)の言うには — AKB とそのファミリーにはメンバーがたくさんいて,たくさんいるがゆえの摂理として,人気の高い子,魅力的なのにちっとも選挙で票が取れない子,などなど,いろんな浮き沈みが同じグループのなかで極端な形で見えてしまう。秋葉原の AKB 劇場などでの,テレビとは一線を画した小さなライブで彼女たちの活動を見て来たファンは,自分の目を惹き付けた子が一生懸命ステージで頑張っているのに脚光を浴びるに至らない,そういう姿を見て,ぼくが,あたしが応援するからもっと上を目指して,という一体感に捕われる。だから,いまや新聞でも取り沙汰される総選挙で一票でも贔屓の子が票を獲得し上位に上がれるなら,出来ることは何でもする。持っている金をすべてつぎ込んでも選挙権を買い,贔屓の子に投票する。その子が前よりも上に位置づけられると,わがことのように喜ぶ。「で,自分も頑張ればあの子のように上に行けるって気がするから,応援したくなるんですよ」。

昔のアイドルは容姿と演技の個性的魅力と,ファンにもたらす恋人幻想(あんな人がぼくの,あたしの恋人だったらなー)に支えられていたように思う。私も学生時代は原田美枝子の大ファンであった(いまも大好き)。いまだって,リブ・タイラーやモニカ・ベルッチなどに「ああ,なんていい女だろう」とうっとりしてしまう。でも,こんな映画やドラマのフィクショナルな印象から「ぼーっ」としていた・しているだけの私なんかと比べると,AKB ファンの心情の内在的論理は大違いである。もっと切実だといってよい。勝ち組・負け組のような酷薄な社会のなかで,ファンもアイドルに一種独特の自己投影をしている。私自身は,AKB48 現象は日本人の昔ながらに大好きなシリーズ性(『源氏物語』のヒロインたちについて,藤壷だ,夕顔だ,空蝉だ,いや六条御息所だ,やっぱり紫の上だ,というような,シリーズに組み入れられたキャラクターを愛で議論することを好む姿)の現代的現れなんだ,くらいの見立てだったが,もう少し抜き差しならぬ人生観に裏打ちされているようである。これは,笑ってはいけない何かである。いまの若者は真面目過ぎる。AKB のファンには,もちろん昔ながらのカワイ子ちゃん願望しか持ち合わせないミーハーやオタク的偏執狂も多いのだろうけど,私の知る範囲の AKB ファンはスポーツ観戦の愛好家と共通する要素をもっている。バカにしてはいけない。

息子は AKB48 の「こじはる」(小嶋陽菜さん)のファンで,部屋に大きなポスターを貼付けている。妻は「大学生にもなってみっともない」とにべもない。別にいいじゃないか。人の趣味を,それがたとえバカ息子のものであっても,どうのこうの言うのはやめようよ。

10.15 付記

川崎まで散歩する途中,一服したパチンコ屋の前の喫煙所にパチンコAKBのポスターがあった。八月に「卒業」した前田敦子さんがまだセンターに君臨している。これで当り前ダアツコも見納めか。

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