安部公房の『砂の女』— 言わずと知れた,20 世紀日本文学の最高傑作のひとつ — は 1962 年に世に出た。私の生まれた年である。今年はそれからちょうど 50 年。半世紀も経ったというべきか。安部公房はすでに亡く,私は無駄に老いた。しかし『砂の女』は,この,クソ面白くない,壊れて行く現代にあって,いよいよ光彩を放っている。何故いまの日本文学には安部公房のような「スゲー」作家がいないのか。
主人公・仁木順平は実生活・人間関係にイヤ気がさしている。そこから一時的にも逃れたいとの気持ちから,趣味の昆虫採集のために砂丘へと旅をする。砂の流動的世界 — 不毛であるがゆえに「生存」と「定着」の鬱陶しい現実的しがらみとは対蹠的にある世界 — に,「言いようのない衝撃と興奮」を覚えて。そこで新しい昆虫種を発見出来れば自分の名を残すことができよう...。ところが,そこは生活環境が不断に砂の底に埋もれて行くことを強いられる世界だった。村人たちによって,彼は穴のなかの一軒家に閉じ込められ,未亡人の女とともに住まわされ,家が砂の底に沈まないよう絶えず砂を掻き出す作業に従事させられる。彼に従順な女は砂の世界に生まれ,砂掻き労働を受入れ,単調な生活に満足している。彼は奴隷的境遇を呪い自由を求め,村人や女に抵抗し,幾度も逃亡を試みるが,砂と村人との妨害により適わない。主人公はそのうち,砂掻き労働と,食事と,女との砂まみれの性交に明け暮れる生活に馴れ,砂丘の溜水装置の研究を唯一の知的生き甲斐とするようになる。彼が失踪して七年が経過し,失踪宣告の審判が下る。
作品の簡単な筋書きはこのようなものである。世の中にイヤ気がさしてこころの赴くところに行ったら,さらに過酷で恐ろしい環境に縛られることになり,「自由」を求めて逆戻りしたくなる,なのに,人間とは不思議なもので非現実的境遇にも適応してしまう — 何か,身につまされる寓話である。自分が生きているのは,彼が一時的に逃げたくなった「現実」とかいう世界なのか,労働と性交だけの単調で,しかも日々流動的で危機に晒された「砂」の世界なのか? 語り手はこの逆戻りが保証された人間の社会的表象を「往復切符」と皮肉っている。普通の人はこの往復切符を握りしめて片道切符のブルースを歌って精神の平衡を保っている...。
でも『砂の女』の魅力は寓意性だけではない。現実か非現実か境界の定かではないが,あの間違いなく懐かしい風景や生々しい人間感情・認識を拡大表示する比喩そのものにほかならない。
やがて,部落の外れに出たらしく,道が砂丘の稜線に重なり,視界がひらけて,左手に海が見えた。風に辛い潮の味がまじり,耳や小鼻が,鉄の独楽をしばいたような唸りをあげた。首にまいた手拭いがはためいて頬をうち,ここではさすがに靄も湧き立つ力がないらしい。海には,鈍く,アルマイトの鍍金がかかり,沸かしたミルクの皮のような小じわをよせていた。食用蛙の卵のような雲に,おしつぶされ,太陽は,溺れるのをいやがって駄々をこねているようだ。水平線に,距離も大きさも分らない,黒い船の影が,点になって停っていた。
映画で意味のないシーンに酷く感銘を受けるときがある。文学において書かれた言葉の列とその喚起する表象そのものにぞくぞくさせられることがある。まさに,そうした比喩に満ちた語りそのものが,安部公房を読む快楽なのである。比喩はその論理をどこまでも追跡できるかのような楽しさに満ちているのである。人間の性愛について次のような語りがある。
どうやら,ほとんどの女が,股一つひらくにしても,メロドラマの額縁の中でなければ,自分の値段を相手に認めさせられないと,思いこんでいるらしい。しかし,そのいじらしいほど無邪気な錯覚こそ,実は女たちを,一方的な精神的強姦の被害者にしたてる原因になっているというのに……
彼は,あいつとの時には,いつもかならずゴム製品を使うことにしていた。以前わずらった淋病が,はたして全快したかどうか,今もって確信がもてなかったのだ。(中略)
「まあ,私たちには,おあつらえむきなんじゃない?」血がすけて見えるような皮の薄い,小さな顎と唇……その効果を計算に入れた,変に身軽な意地の悪さで,「私たちの関係は,いずれ商品見本を交換しているようなものでしょう?……お気に召さなかったら,いつでもお引き取りいたします……封を切らずに,ビニールの袋ごしに,ためつ,すがめつ,値ぶみしてるってわけよ……どうかしら?……本当に信用できるのかしら?……うっかり買って,あとになって,後悔したりするんじゃないかしら?」
しかし,あいつが,本心から,そんな商品見本的な関係に満足していたわけではない。たとえば,あいつがまだ寝床の中で,股に手拭をはさんだまま,素裸でいるというのに,こちらはすでに,追い立てられるような気持ちで,ズボンのボタンを掛けはじめているといった,あの過酸化水素の臭いがする時刻……
「でも,たまには,押し売りしてやろうくらいの気持ちになってもいいんじゃない?」
「いやだね,押し売りなんて……」
「だって,もう,なおっちゃっているんでしょう?」
「君が本気でそう判断するのなら,合意のうえで,素手にしようじゃないか。」
「なんでそう責任のがれするのよ?」
「だから,押し売りは嫌だって言っているだろう?」
「変ねえ……あなたの淋病に,私が一体どんな責任があるのかしら?」
「あるかもしれないさ……」
「馬鹿言わないでよ!」
「まあ,とにかく,押し売りは願い下げだってことさ。」
「それじゃ,一生,帽子は脱がないつもり?」
「どうして,そう非協力的なんだろうなあ……一緒に寝ていて,やさしい気持ちがあれば,それくらい当然じゃないか。」
「要するに,あなたは,精神の性病患者なんだな……それはそうと,私,明日は残業になるかもしれないわ……」
男女の情事の真意を「値段」,「商品見本」,「信用」,「ビニールの袋」,「ためつ,すがめつ,値ぶみ」,「押し売り」と縁語で一貫した商品経済学的比喩で展開し,「信用」を「協力」関係で混ぜっ返す。この諧謔的なやり取りのはてに,性愛における男の志向について「精神の性病患者」という本質をぐさりと刺す。「手拭を股にはさんだまま」だとか,「あの過酸化水素の臭いがする時刻」だとか,「ちょっとやめてよ,恥ずかしい」と思うくらいに生々しい現実的光景が,このキツい皮肉と諧謔とにイヤらしい臭気を添えていて,私なんかは舌を巻く。文章を読む快楽を覚えるのである。
砂の世界。それはちょっと油断して放置するとすぐ呑込まれて,生きる環境が壊れてしまう世界。1962 年という年は,「もはや戦後ではない」と経済白書で宣言され戦後の復興が完了したとされる 1956 年からさらに 6 年後,さらなる経済成長のなかで日本が活況ある安定期にあったころである。そういう時代背景のなか,崩れやすい,流動的な,「安定」の対極にある,砂の世界に敢えて人間を置く作者は,繁栄のウラの人間的荒廃を藝術的洞察力によって直視していたのだと思う。いまこの現代の日本は,経済的疲弊から立ち直れず,砂ならぬ震災の「波」による破壊に打ちのめされ,まさに壊れて行くなかにある。砂の世界こそが現実である。私は握りしめた往復切符を使っていま往路にあるのか,復路にあるのか。そういう思いに駆られた。
それにしても。砂の世界では,飯を食うか,女と性交するか,あるいは,何のためにやっているのかどこまで自覚しているのかも知れない労働に精を出すか,それ以外はわずかにディープな趣味に沈潜するかの生活。確かに身につまされる。この危機的日本にあることがわかっていながら,馴れ切ってしまっている。作品ではそこで衣食住に付随して必要とされるものとして「ラジオ」と「鏡」が語られている。乾いた情報と自己表層の確認手段。『砂の女』はまるで時代を予見したかのような恐ろしい小説である。ん? いや。いまの若者は,労働も,食も,性交も与えられていない。砂の世界よりずっと悲惨ということか。
娘は安部公房やカフカのファンである。あまり本を読まないわけだが,私の与えた本では,この二人の作家だけは熱心に読んでいる。妻は逆にこういう徹底的に幻想的な暗い物語世界は大の苦手で,私,娘とはどうも趣味が合わない。ま,娘は安部公房のエロが好きなんだろう。
9.24 付記
YouTube に映画『砂の女』(1964 年,勅使河原宏監督・安部公房脚本作品)のサウンドトラックがあったのでここにエンベッド。日本の映画が研ぎ澄まされた映像眼を秘めていたころの作品である。武満徹の狂気溢れる素晴らしい音響は安部公房の気味の悪い幻影的世界に相応しい。
『砂の女』を収録した武満徹・映画音楽集 CD も挙げておきます。