Max Reger op.117 für die Violine allein

領土紛争のおかげで世の中がナショナリズムで騒がしい。面白からず。こういうときは,ヨーロッパの古典の香りのする,気高い孤高の音楽を聴いて,普段から心がけていることに立ち戻るのがよい。私にとってそういう音楽の第一はバッハであるけれども,今日取り出したのは,マックス・レーガーの無伴奏ヴァイオリンのための前奏曲とフーガ,シャコンヌ作品 117 全 8 曲。Präludien, Fugen und Chaconne op.117 für die Violine allein (1909-1912)。演奏は Philipp Naegele によるヴァイオリン独奏。独 DA CAMERA MAGNA レーベルから出ていた Max Reger Kammermusik Gesamtaufnahme 室内楽全集全 23 巻のうちの Vol. 15。1972 年の録音である。

作品 117 はヴァイオリン一丁だけでフーガを造形してしまおうというバッハ以来の伝統にある。演奏効果がまったくない。聴く者がポリフォニックな線を意識的に感得しなければならず,難解である。華のあるオーケストラの愛好家にとってはもっとも「退屈」な音楽に属する。しかも,バッハのテーマに基づく第 5 番以外の 7 曲は全て短調の,暗い,影のある作品である。しかし,これらには,私の勝手なイメージで喩えてみれば,絶品の新作漢詩を読むような気品がある。あるいはアヴァンギャルドで奇矯な,あるいはロマンティックで頽廃的な,あるいは旧態依然のスタイルに基づく優美な詩や小説が全盛の時代に書かれた,古典形式に基づく漢詩のような,逆説的新鮮さがある。古典的でありながら,世を支配する趣味に対する孤高のアンチテーゼともいえる。

レーガーは様式的にはバッハやベートーヴェンのドイツ古典音楽の正統的後継者のイメージが強い。しかし,上記のように 19 世紀末の時代背景に置いて,マーラー,シェーンベルクのロマンティックで斬新な響きと対照させると,その古典的音響は一種独特の反逆性を帯びている。第一次大戦前夜の死臭に満ちた頽廃的雰囲気のなかで,部屋に閉じ籠って,世の雑音に背を向け,孤独な創作に磨きをかけた彼の音楽の「室内」的性格は,私の耳には却って攻撃的に響く。モーツァルトのような理屈抜きの音楽的愉悦というのも,レーガーからはほとんど聞こえて来ない。かといって,厳粛性やら,精神性やら,といった紋切型の古くさい概念とも違う。思うに,そういうところにレーガーの現代性がある。

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私の所有している DA CAMERA MAGNA 全 23 巻室内楽全集は,弦楽四重奏曲,弦楽三重奏曲,フルート・ヴィオラ・ヴァイオリンのためのセレナード,ヴァイオリン・ソナタ,無伴奏ヴィオラ/チェロ組曲など,レーガーの絶品の室内楽作品をことごとく集めた,貴重なコレクションである。残念ながらいまや入手は困難である。作品 117 の CD そのものも滅多に出ないのだが,庄司紗矢香のヴァイオリン独奏による盤が入手可能である。ただし,前奏曲とフーガ第 1 番ロ短調,同・第 2 番ト短調,第 4 番シャコンヌ・ト短調の 3 曲のみの収録である。この曲を取上げること自体,庄司紗矢香の確かな藝術観が知れる。バッハとのカップリングは CD を売るためには仕方がなかろう。