巫山ノ夢短カク

煽情文学が好きな私は,最近,漢詩の竹枝を好んで読んでおります。竹枝とは男女の艶事を詠う漢詩ジャンルの謂である。江戸の漢詩人・市河寛斎の竹枝・七絶に次がある。書き下しと私の解釈を付しておく。

  鴛瓦霜寒落月樓   鴛瓦,霜寒クシテ,落月ノ樓,
  巫山夢短轉綢繆   巫山ノ夢短カク,轉タ綢繆。
  妾身若化朝雲去   妾ノ身モシ朝ノ雲ト化シテ去ケバ,
  驅雨留君下水舟   雨ヲ驅ツテ君ノ水ヲ下ル舟ヲ留メン。
 
鴛鴦のように向かい合った瓦屋根に寒々と霜が降り,月も落ちた早朝の妓樓。情事は夢のようにはかなく短かく,それゆえにいよいよ肌と肌とを密に重ね合わせて睦合う。わたしの身がもし朝の雲となって飛んで行くことができるなら,雨を豪と走らせて,還って行くあなたの舟を引き留めようものを。

この詩は娼婦を抒情的主体にしている。しかし,娼婦が夢の如き愛欲の夜の余韻に浸って,男を思い別れを惜しむあまり自然力に化してその帰途を遮ろうなどとは,常識的には考えられない。何しろひっきりなしに買春客がやって来るのだから,彼女に客のひとりひとりに思い入れを抱くこころの暇はないからである。娼婦がプロであればあるほど,つまり客との恋愛遊戯の演技が巧みであればあるほど,次々とやって来る男たちのペニスを見る娼婦の目は,患者に間違いなく対応付けるべく何本もの点滴薬の列を確認する看護師の目と同じではなかろうか。

同様に,永井荷風『濹東綺譚』を「わたくし」と娼婦・お雪との相思相愛のロマンスとすることは,いかに読む側の男としての勝手な感傷的解釈であることか。「本気の娼婦」という意味で,同じ理屈だからだ。「思わず本気モードになっちゃいます」はソープランドの嬢紹介の常套的謳い文句である。

要するに,むしろ,こういう感傷的余韻に浸るのは娼婦ではなく買春男性のほうにこそ相応しい。市河寛斎はそれを知りつつあえて女心としてフィクショナルな詩情を詠ったというべきであろう。それは男の感傷なのである。これを男の思いとして詠うと,男として恰好が付かない。だからこそ女に仮託したフィクショナルな詩になっているのである。思うに,ここにこそこの詩の面白さがある。男を思う娼婦の可憐な情感などというのは勘違いであって,娼婦のフェイクのプロフェショナリズムこそが詩の逆説的魅力だろう。

それにしても,「巫山ノ夢短カク,轉タ綢繆」とは何とも艶がある。市河寛斎の漢詩をもっと読みたいと思い,岩波書店から出ている『江戸詩人選集 第五巻 市河寛斎・大窪詩仏編』を購入した。