思うに,文学の本質は作者の想像力・フィクションにある。作中の事物・状況がどれだけ風情に満ち,抒情的,浪漫的,刺激的,魅惑的に描かれていても,それは作者の想像力に依るものであり,描かれた事物の本性,現実,実在像とは異なるもの(「似ている,似ていない」ではなく,本質的に違うもの)と考えたほうがよい。
文学作品に描かれた事物の現実的な姿を己の経験と観察とに照らして解釈し,それと作品のなかでの取扱いとを見比べると,何が得られるか。このプロセスをきちんと踏みながら作品を楽しむのが「大人の読み」というものである。己の表象と作品世界とが近似していれば共感となり,不一致の場合でも新しい発見を与えてくれれば世界が広がり,生きることの豊かさがもたらされる。
『濹東綺譚』は,「玉の井の私娼街を背景として人事に添えて夏から秋への季節の移りゆくさまを描写」(p. 116)した風俗小説にして,作者の意図として「玉の井という昭和の私娼窟を風物詩的に後世に伝え残そうとした」(p. 117),「作中人物の生活や事件が展開する場所や背景を情味を以て克明に描き写した一種の随筆的小説」(p. 116。引用はいずれも新潮文庫版『濹東綺譚』の秋庭太郎による解説)と評される。このように,秋庭の評の核心には,『濹東綺譚』は「後世に伝え残す」べき現実(「生活」,「場所」,「背景」)を「克明に描き写した」リアリティと「情味」とを兼ね備えた小説である,という見方がある。おそらく本作品に対する評価の主流である。
私もかつてはこの見方に準じて,『濹東綺譚』は,季節の遷移の詩情と江戸戯作・漢詩の文学伝統の情趣とに彩られた,「わたくし」とお雪との間の,成就しなかった(情事はいくらでもなされたであろうが)はかない一夏の恋愛潭,山の手の金持ち老人と「其身を卑しいもの」(p. 72)とされる若く美しい娼婦との激しい落差にこそプロット的趣向のある恋愛潭と捉えて来た。そしていま現在も,文学的詩情と現代的遊女恋愛潭との融合にこそ作品の美点を認める。
しかしもう一方で,これだけで満足するのは,「大人の読み」といえるだろうかと,現在の私は疑いの目で見てしまう。「玉の井の私娼」たちの実際の生活,人となり,娼婦買春の遊びとしての習俗などなど,どこまでレアリアを調査した上で秋庭は「克明に描き写した」などと断言しているのか。まったくわからない。仮に娼婦というのが職業のひとつに過ぎないと突き放してみると,『濹東綺譚』を娼婦と客との恋愛潭として読むには,「わたくし」とお雪の「恋愛」関係にウソ臭さが否めないのである。
そういう疑問をもって『濹東綺譚』を読むと,少し面白い作品構造が見えて来る。結論から言うと,この作品は「勘違い恋愛小説」の面白さがある。つまり「わたくし」とお雪とのやりとりは,江戸文学の雰囲気を借りて上流のお忍び客と低級娼婦との異界流離潭風(己の上流出自を記しながらことさら身を窶して最下層に降りて来た「わたくし」は,玉の井を「ラビリント」と呼んでおり,どこか地獄を巡るダンテを気取っている)の恋愛情趣をまき散らしながら,じつは,互いの目に見えない心の状態がまったくすれ違っているという心理的諧謔を示しているのではないか。
娼婦,すなわち男性に性的サービスを与えその対価に金銭を得るプロの個人事業者は,毎日毎日,来る日も来る日も,「仕事で」男性器を口なり女性器なりの解剖学的人体で受入れている。女性器は要するに商売道具であり日々のプロフェショナルな鍛錬により鋼鉄のように鍛えられている。とはいえ,己の女性器を使ったサービスを販売するということを除けば,彼女はケーキを売る菓子屋の女店員とどこも変わるところがない。もちろん,娼婦は,それを「其身を卑しいもの」(p. 72)と書く荷風ばかりでなく,世の中一般から差別的に蔑みをもって扱われている。
しかし,客を遇する職業,仕事,生業という意味で,娼婦も,ケーキ屋女店員も等価である。すなわち,娼婦はケーキ売りと同様,客を恋愛対象として認識することはまずない,ということである。客がケーキを買ってくれ,リピートしてくれる限りにおいてケーキ売りがスマイルを振りまくのとまさに同じく,娼婦は性行為に「恋愛」的演技(色目)を加えて客の満足度,リピート願望を掻立てる。その様子によって娼婦が自分に「気がある」と思うことの愚かしさは,ケーキ売りの女店員のスマイルに「俺に惚れてんのか」と勘違いするのとまったく同じである。娼婦は性行為とその周辺的雰囲気・疑似恋愛を売り物にしているだけいっそう,その勘違いが起きやすい。
もちろんケーキ屋女性店員が客と恋に落ちる可能性はゼロではない。同様に,娼婦が客に本当の恋愛感情を覚える可能性だって当然ある。しかし,娼婦を「職業」として捉え,そのプロ意識の現実的理解を念頭において,『濹東綺譚』のお雪の言動を観察すると,彼女が「わたくし」に対して恋愛感情を抱いてしまったという,甘美な小説的ストーリーよりもむしろ,性のプロフェショナルによる疑似恋愛のフェイクのしたたかさこそが読み取れるのである。つまり,『濹東綺譚』は「俺に惚れてんのか」式勘違いを巧みに描いた小説なのである。
「わたくし」がどうも勘違いしているようだと思われるのは,『濹東綺譚』のお雪の振舞いに,「わたくし」が特別ではない,数ある客の一人でしかないことを示してあまりある記述が散見されるからである。お雪の客には,ひと月の間家に居座った呉服屋のドラ息子の話が出て来る(p. 39)。これは「わたくし」のような金持ちの馴染みがお雪にはごろごろいるということである。「あなた,おかみさんにしてくれない」(p. 51)という「わたくし」を怯えさせた決定的告白は,独身者と判明した年輩金持ちリピーターへの愛情フェイク表現の常套手段とも取れる。しかも,この台詞を発した直後にお雪は,馴染みの客が店口を叩くのを認めると,「アラ竹さん,お上んなさい」と言って「わたくし」をほっぽり出して「馳け降りる」ように階段を急いで竹さんを出迎えるのである(p. 57-8)。
こうして『濹東綺譚』は「わたくし」以外の客の誰もが「わたくし」のような応対を受けている可能性が見えるように書かれているのである。そもそも,初対面で「どこに出ていたんだ」(p. 25)というような立ち入った過去を訊く「わたくし」のような客は,娼婦にとって馴れ馴れしいイヤミな客の第一属性である。それは「これで沢山だわねえ」(p. 26)というお雪の苛立った台詞によく現われている。お雪にとって「わたくし」はいよいよ「金持ちのリピーター」としてしか映っていなかったのではないかと想像されるのである。
江戸戯作・花柳小説の伝統を背景とした情趣を横溢させることにより,このような散文的勘違いをはかない一夏の恋愛潭に劇的に反転させて見えさせるところこそが,この小説の諧謔である。別離の半年ないし一年後の「わたくし」とお雪の再会を想像するくだりで,「この偶然的邂逅をして更に感傷的ならしめようと思ったなら」(p. 81)云々と描写をためらい,ロッチの筆に言及することで茶化しているのは,その諧謔を強調している。実際なら,どれだけ馴染みにしていたとしても,客は客に過ぎず,娼家の外では単なる通行人と変わりはなく,疑似恋愛サービスを与える必要はないわけで,おそらく,上がった(素人になった)お雪は「わたくし」を認めても「知らんぷり」(あれはサービスなんだから勘違いしないで,もう私は娼婦ではないのだから纏わり付かないで,という意図を込めて)をしたに違いない — これは私の実際的・散文的な想像である。そして,思うに,荷風もそう考えていたのではなかろうか。
『濹東綺譚』を読んで,昔の娼婦は風情があってよかったとか,こんな美人で気のよい娼婦に出会って同じような切ない恋愛がしたいとか,そんなふうに感傷的にノボセあがるとしたら,それはガキの読み方である。膣に指を突っ込まれてぐりぐりされ潮吹きをさせられてよがるアダルトビデオ女優を観て,「女はこれをされると悦ぶんだ」とガキのように勘違いするのとどこも変らない。それは男の勝手な欲望というものに依るフィクションでしかないのだ。それは,女のオーガズムの実態をではなく,観る側である男の独り善がりの趣味をこそ示しているのである。
新潮文庫版『濹東綺譚』の解説で,秋庭太郎は次のように書いている。
わたくしなる人物がお雪と別れる理由は,お雪が女房 さんにしてくれと云い出したことからであって,女は人妻となれば嬾婦か悍婦になるからだと敬遠するのである。これはわたくし則荷風の女性観結婚観であり,女性不信の作者の性向が窺われるものの,お雪をいと惜しむ結末の余韻ある巧みな描写に陶酔して作者の女性観などを是非する余裕を与えない。
たしかに「女性観などを是非」するだけでは『濹東綺譚』の豊かさは抜け落ちてしまうだろう。それでも,おそらく荷風はそういう己の性情を作品で暗に,自嘲的に,からかいたかったのだと私は信ずる。だからこそ鋼鉄の女性器をもつプロフェショナルとの恋愛遊戯の反転的諧謔が意味をなすのである。小説的勘違い野郎を笑ってやる,ってなもんや。
考えてみれば,「おかみさんにしてくれない」と言われて敬遠してしまう「わたくし」の姿は,好きなだけ恋人とセックスしておきながら,「結婚して」と彼女に迫られたトタンにドンビキしてしまう,覚悟のない無責任な若い男とじつに似ている。つまり,秋庭の指摘している荷風の「女性不信」は,無責任の持って回った言訳でしかないように私には思われる。「女は人妻となれば嬾婦か悍婦になる」— これは「真理」だろうか? それは,そのように「わたくし」ないし荷風が思っているだけであって,ただただ彼が女性ときちんと向き合うことができない性格であるからこそ出て来る身勝手な偏見である,と考えたほうが穿っている。
荷風は正妻を一年で離縁し,次に迎え入れた娼妓上がりをやはり一年で追い出している。当たり前である。学校に通う弱年から,一人の生身の女性と真摯に向き合う前に,荷風は買春にハマっているのだ。性戯のプロ,しかも思いやりだとかをまったく示さなくとも金でラクに恋人気分を満喫できるプロ — そういうフィクショナルな女性に馴らされた若い男 — しかも,江戸情緒あふれる文学的フィルターを通してしか女性を眺められない男 — が,普通の,あれこれ面倒を焼かなくては恨み言ばかり言う,手間のかかる,我慢を強いる,所帯染みた,性戯のヘタな,性器の臭う,現実の,生身の女性に満足できるわけがないではないか。で,一年というわずかの間に飽きて女が厭わしくなってしまう。こうして女性観が崩れて行き,「女は人妻となれば嬾婦か悍婦になる」という単純極まりない考えに至るのは,容易に想像がつく。作家としては大いに尊敬する永井荷風が人間・男としては自己中心的な欠陥をもった人物であったと私は思っている。女を嬾婦だの悍婦だの蔑む前に,己の男としての器量を疑ったほうがよい — 私の独り言。
お雪の部屋をはじめて訪れた際に「わたくし」が「おぶ代」(御祝儀)として50銭を支払うくだりがある(p. 26)。昭和十年ころの相場として,米10キロが2円50銭くらいだったというから,50銭はいまならその2000〜3000倍の1000円,1500円くらいの価値である。現代の性風俗に照らしてサービス料(要するに本番の対価)がその2,3倍としても,5,6千円でお雪を買えたことになる。いまのヘルスより安い。
そんな格安の娼家で,「わたくし」は「じゃ,一時間と決めよう」(p. 26)などというケチな遊びをしている。一時間なんてショートコースもいいところであって,娼婦からすれば「なによ,一発嵌めて終わりってこと? そんなに私は安い女なわけ?」と思われても仕方ない。あれほどお雪の江戸前の美に瞠目している割りには,安く上げ過ぎではなかろうか。一方で「わたくし」は古雑誌と長襦袢の古着に3円70銭をはたいているのである(p. 14)。
こういうところからも,『濹東綺譚』の恋愛潭としてのウソ臭さを私は嗅ぎ取ってしまうのである。誰か性風俗遊興観点で『濹東綺譚』のこうした経済学的意味論を説いてくれる —「情味」に溺れるあまり玉の井のレアリアを「克明に描き写した」などと筆が滑ってしまう秋庭のような感覚的論者ではない — 実証的研究者はいないものだろうか。
いま新潮文庫から出ている以下『濹東綺譚』は,私の手元にある 1951 年版とは引用ページ数が異なるかも知れない。
上記で荷風の「人となり」をかなり手厳しく書いてはいるが,私にとって荷風は明治以降で一際深く尊敬している作家のひとりなんである。悪く思う部分は彼の一面でしかなく,彼の文学的業績はそれを埋め隠してしまうばかりに大きい。『濹東綺譚』は諧謔的な読みを許すくらい豊かな意味の膨らみを備えた小説なのである。
私だってお雪さんが大好きなんである。ただ,その「大好き」の依って来る魅力は,「社会の最底辺にある娼婦でありながら,可憐な心を失わない」などという子供だましの感傷的女性像にではなく,たった独りの観客(買春客)を前にした密室の疑似恋愛劇の巧みな役者の姿にこそある。二十四,五の女性がそのプロフェショナルな演技でもって,五十八歳の「わたくし」の生を狂わせ,手玉にとっているのだ。思うに,『濹東綺譚』の諧謔的反転構造を捉えないと,その現実性ある魅力は失われてしまうのである。