ヘンな本 - ウェイリー訳『源氏物語』の日本語訳

アマゾンや Ozon といったインターネットマガジンサイトで書籍を買うことが多い。でも,本屋は目当ての本を求めて行くだけではなく,どんな本が出ているのかという散策の場でもある。先日,丸善で平積み棚,新刊コーナーやらを眺めていて,けったいな本を見つけた。アーサー・ウェイリーの『源氏物語』の英訳の日本語訳。平凡社ライブラリーの文庫本。

日本語の英訳の日本語訳? 意図不明の珍本を思わず手にとってみた。「いづれの御時にか女御,更衣あまたさぶらひたまひけるなかに,いとやむごとなき際にはあらぬが,すぐれて時めきたまふありけり」の書き出しを期待した。だって,翻訳の翻訳,往って還るのなら,何もせず,原典が最良の形式だから(著作権上も問題ない)。最適化 C コンパイラは, 変数 A を変数 B にコピーしただちに変数 B を変数 A にコピーするコードを書いても,変数 B がこれ以降二度と参照されなければ,この手続きを機械命令に翻訳しない。意味のないオペレーションはしないのである。ところが本書はフツーの現代語訳であった。佐復秀樹さんの翻訳なんだから当然か。

『源氏』専門の日本人学者によるきちんとした訳,私の読んだ谷崎潤一郎による訳,与謝野晶子,円地文子,瀬戸内寂聴,橋本治による思い入れたっぷりの創作訳など,いくらでも名訳があるのに? 読みやすい新訳がほしい? なら何で誤訳がわんさかある英訳からの現代語訳なのか? そうか,海外の日本文学者がどれだけ『源氏』を曲解しているのかを嗤おうというのか? でもそれも違うらしい。どうも,海外の日本文学者の『源氏』理解を研究したいのだけれども,「英語は苦手なんだよなあ」という「怠慢な」日本人『源氏』研究者向けの本ということくらいしか,本書の意図について思い浮かばない。でも,そんな本が「文庫」で出るか?

私なら,ウェイリーの英訳をもとにしたフランス語訳,それをもとにしたドイツ語訳,さらにそれをもとにしたロシア語訳,さらにそれをもとにしたチェコ語訳,さらにそれをもとにしたブルガリア語訳,どこかのモノ好きがさらにそれをもとにしてなした教会スラヴ語訳,ならばと別のモノ好きがここからなした古典ギリシア語訳から『源氏物語』の日本語訳を出すだろう(この重訳の連鎖は私のフィクションです)。原作では箸で料理をつつく描写が,二本の棒で鼻の穴をぐりぐりするシーンに変わり果てているやも知れない。「この誤訳はどこで混入したものでしょうか?」という民族文化的観点の面白さが見いだされるかも知れない。いや。『源氏物語』を読む上では,これは何の意味もない。

こういう逆翻訳本を何と言ったらいいのか。こんな本は,おそらく日本でなければ出版されない「ジョーク本」の類いといえるかも知れない。わが国の一大古典に海外の big name がどのような手垢を付けてくれるのかみてみたい,なんて言う関心は,倒錯している。翻訳で育った文化的後進国(もちろん,これは西欧の視線での後進国)特有の関心である。同じ本に何種類もの翻訳があるということに何の違和感も持たないヘンな国特有の関心である(欧米ではある書籍の翻訳が出たら,その版が活きているうちに同じ書物の別訳はまず出ないと思う。「訳を競う」なんてナンセンスなのだ。誤訳があれば最初の翻訳者が新版で訂正する)。

海外の人がどのように『源氏』を理解しているのかを知りたければ,海外の研究者による『源氏物語論』に直接当たるべきではなかろうか。でも,本書のアマゾン書評をみると「読みやすくて『源氏』がよくわかった」という高評価のものが多い。どうして? なんでこんなので『源氏』が理解できたといえるのか。『源氏物語』から佐復秀樹さんが直接現代語訳をしたものだったとしたら,比較の対象は『源氏』の専門家,谷崎,晶子,文子,あるいは寂聴になる。その場合,このような高評価は得られただろうか? 世の中,本当に,わけがわからないことがまかり通るものである。

複雑なことを単純な要素に腑分けして一つ一つ積み上げて理解させることは教育者・解説者の重要なアプローチである。しかし,丹念に内在的論理を読み分けないと誤ってしまうことを単純化して「理解したつもりになる・させる」ことは滑稽である。そしてそのテのニセモノがあまりにも多い。

ウェイリー版 源氏物語〈1〉 (平凡社ライブラリー)
紫式部
アーサー・ウェイリー著
佐復秀樹訳
平凡社