雨もよいの今日午後,日本画家・松井冬子の展覧会に行って来た。横浜みなとみらいにある横浜美術館。昨年末から開催されていて,絶対見るぞと思いつつ,書道展,國芳展のあとになってしまった。 3 月 18 日に終わってしまうこの個展,ギリギリだとまた混雑しそうなので,妻,クラブ帰りの娘と三人で今日出かけたのである。
美術館の入り口から中を覗くとなんと長蛇の列。「え? またかよぉ」と思ったのだが,これは松井冬子本人がサイン会をしていて,その列だったのである。チケット売場では順番待ちをする必要はまったくなかった。そして幸いにも,閉館時間近い頃合いのためか来場者は少なく,余裕をもってしげしげと絵画に視入ることができた。
以前,NHK の美術番組でたまたま松井冬子の『世界中の子と友達になれる』(2002),『浄相の持続』(2004),『陰刻された四肢の祭壇』(2007),『この疾患を治癒させるために破壊する』(2004)を目にして,度肝を抜かれた。女性の裸体はいうまでもなく,内臓を曝け出す姿もこんなに美しいのか。こんな壮絶なインパクトを嫌みや衒いを伴わずに残す日本画家がいることに本当に驚いた。そして今日,実物をこの目で視て,絵の題材・テーマのみならず,日本画に特徴的な「間」の色彩の微妙さ,描かれた女性の髪の毛の繊細さ・ぼかしの精妙さ,日本画の絹地と絵具の渋い肌触り・色調といった,マテリアルの要素に陶然となった。西洋の油絵もいいが,日本にもぞっとするような絵画の伝統が生きていることに,心底打たれた。
『世界中の子と友達になれる』。シュミーズ一枚の美しい少女が画幅左隅で左方向(それは日本人にとって世界の象徴)に向かって何かをささやきかけている。手足の指先には痛々しい血が滲んでいる。右端には揺りかごが置かれているが赤ちゃんはいない。圧倒的異形の藤の花房が垂れ籠めている。出口のない暗澹たる安逸とその痛み。悲しみ・絶望などというのではなく「痛み」だ。ここまでは NHK の番組からも読みとれた。しかし,実物の画を視てはじめて気付いたことがある。藤の房の中途から下にかけて雀蜂の大群が蝟集し,少女の左腕や花房のところどころに大きな雀蜂が徘徊している。この痛みは蜂に刺される痛みに擬せられているらしい。少女は穏やかに微笑んで痛みを顔には表さない。まるでそれこそが悦びであるかのようである。日本の少女は井のなかの蛙であるかも知れないが,その暗澹たる世界ゆえの鋭い痛みをかかえながら「世界中の子」に微笑みかけている。少女はこの痛みで世界を滅ぼすことができる(微笑みで「世界の子と友達になれる」かも知れないが,もう一方でこの痛みを分ち合うことで世界を滅ぼしてしまうかも知れない)— そんなことを考えた。
この画は「絹本着色,裏箔,紙 — Color on silk mounted on paper with metal foil backing」という画材によっている。日本画の顔料に砂のような粒子を混じているためか,漆黒の色調が視る角度によって星のような煌めきを放つ。この感じが何とも凄いんである。これは実物を視ないと味わえない魅惑である。
この他,横浜美術館常設展示作品も観た。開化期の日本画家の作品,横浜の写真等に混じって,ピカソ,ダリ,カンディンスキー,セザンヌ,パウル・クレー,ブラックなどのタブローがさり気なく飾られている。もう少しゆっくり視たかったが閉館の時間となってしまった。図録,絵ハガキなどを買い,そのあと三人でとんかつを食って家路についた。図録の松井冬子による序に「技術の制約の無い所からは何も生まれない」ということばがあった。「困難を克服するとつねに満足がもたらされる」というプーシキンの認識もまさにこれと同じである。そうだ,素材の足枷こそが藝術の根幹にある。