乙一の長編小説に基づく映画『暗いところで待ち合わせ』を観た。天願大介の監督・脚本,田中麗奈,チェン・ボーリン,井川遥,宮地真緒,佐藤浩市ほかの出演による 2006 年ジェネオン・エンターテイメント製作作品。
事故で視神経が害され光をわずかに感じる程度の,ほぼ全盲状態となった主人公・ミチル(田中麗奈)は,窓から外をみている。彼女の家の前の駅ホームから,アキヒロ(チェン・ボーリン)はミチルをみている。そのプラットホームで,ある男が線路に突き落とされ轢死する。駅員に呼び止められアキヒロはその場から逃走する。殺された男・松永トシオ(佐藤浩市)は,孤独で柔軟性に欠ける中国人ハーフ・アキヒロを職場でイジめ,辱める仲間のリーダーだった。アキヒロには松永への殺意があった。
警察に追われるアキヒロは,ミチルの家を訪れ呼鈴を鳴らし,隙を捉えて彼女に気付かれないようにそっと家に忍び込む。彼は,かねてから気になっていたミチルの様子を通勤時に駅ホームから観察し,彼女の目が見えないことを知っていた。こうして,物理的な闇にいるミチルと,社会的な闇(外国人に冷酷な日本社会という闇)に苦しむアキヒロとの,奇妙な同居がはじまる。
闇を抱える者は家に閉じ籠ろうとする。それが何事も起こらずいちばん安全・平穏だからだ。ミチルは一人で杖を突いて外出すると,車のクラクション,自転車が身をかすめる際のブレーキ音に脅かされる。「私が外に出ると皆が迷惑するの」。それでも,見えないはずの世界に向かって窓から外を眺めるのをミチルが日課にしているのは,その開かれた世界への彼女の無意識の憧れの現われである。他者との繋がりへの秘かな強い希求である。だから,見えない不審な侵入者が害意をあからさまにしない限りは,彼の人となり,侵入行為の理由,その背景について冷静に考えることができ,侵入者がむしろ自分を幇助してくれたことを察知した上は,侵入ということへの常識に囚われずに,彼を受け容れることができるのである。そして,ミチルは外を歩く喜びを知り,アキヒロに「ありがとう」と感謝する。そう,生きる喜びは,視ることではなく考えることによってもたらされる。
田中麗奈の視覚障害者の演技がよかった。ミチルの視線,目の表情には,目というものは「視る」ためではなく「考える」ための器官なのか,とさえ思わせる魅力があった。そう,見えないものが見える目。田中麗奈は,『姑獲鳥の夏』などの京極夏彦小説の映画化シリーズにおける中禅寺敦子のような,キュートな女の子 — 探偵の真似事,ハンチングの似合う,活発で,セクシュアリティを超越した,お茶目な女の子 — の役回りにおいて魅力的な女優なんだけど,この映画のミチルのような,謎めいた考え深い目の,男でも女でもない中性的な存在感にも,それこそ私は目を見張らされた。
本作品はミステリーである。とはいえ,真犯人を明らかにする推理に物語の核心が存する本格ものではなく,人間のこころのスリリングさにこそ面白みのある抒情的ミステリーである。殺人のシーンには少し無理が感じられたが,映像の現実性(リアリズム)は映画の本質ではない。真犯人の恐ろしくも哀しい形相は見応えがあった。この部分については,ぜひご自分の目で本作品を観ていただきたい。
出演: 田中麗奈,チェン・ボーリン,井川遥,宮地真緒,佐藤浩市ほか
ジェネオン エンタテインメント (2007-06-08)