クリスマス・プレゼントで妻から貰った北村薫のシリーズ本三冊を読んだ。ベッキーさん三部作。年末から通勤電車のなかで少しずつ楽しんで,23 日にようやく読了。
シリーズ第一集から順に『街の灯』,『玻璃の天』,『鷺と雪』という書名で,作品自体が短篇集の形式になっていて,それぞれ収録された短篇のタイトルが本の題名になっている。内容は,昭和七年から昭和十一年に至る,日本が奈落の底へ落ちて行く時代を背景とした,ミステリー風世相物語である。主人公・花村英子の一人称体による語りである。華族の令嬢である英子は,上流社会の箱入り女学生の立場にあって,新聞・ラジオ,学校の友人,たまさかの外出から,世の中の不条理な出来事に触れ,文学に培われた近代的思考能力で考え,近代的良心に照らして悩む。そんな日常において発生するちょっとした事件(多くは「事件」というほどの衝撃を欠いている。本格的殺人事件は『玻璃の天』くらいだった)に対して,花村家の女性運転手・別宮みつ子(英子は,『虚栄の市』の憧れの主人公・ベッキー・シャープを別宮の名に掛けて,彼女のことをベッキーさんと呼ぶ)の控えめな助言をヒントにしながら,英子はその謎を解決して行く。
実際に起こった事件,事実,たとえば,放送局がブッポウソウの囀りを生放送しようとして果たせなかった,といったような事柄が鏤められている。これらは作品の不穏な時代背景の特徴描写とうまく融合して,単なる時代雰囲気の醸成だけに留まらない暗示的効果を出し得ている。とくに同時代の文学的事象もそのひとつで,山村暮鳥の『聖三稜玻璃』に収録された詩『囈語』の詩行「騒擾ゆき」の引用でもって,1936 年の二・二六事件を暗示させるくだりは,「こじつけ」という言葉では片付けたくない妙に生々しい暗合を感じた。
作品はミステリーに属するものといえるだろうけれど,謎解きは二の次で,語りの眼目はなによりも,教養があり,しっかりした考え方を持ち,冷静に行動できる新しい時代の女性の姿にある。英子は自由思想的であり,階級的価値観に縛られず,世界を読み解くのに読書経験と論理的思考力とにものを言わせるところがある。ベッキーさんは男装の麗人,文武両道の清楚な女傑,深い教養と知性を備えたスーパーウーマンである。このあたり時代小説の人物設定としては強引な要素が否めない。でもそんなことはどうでもよい。痛快ヒーローものの面白さがあるのだ。軍国的右翼国家主義者・段倉荒雄(北一輝か大川周明あたりがモデルか?)とベッキーさんとのやりとりのくだりは,バカを暴力でなく教養でもって貶める(相手を「打ち負かす」のではなく,こっそり「嗤いの対象」に貶める)点で,たいへん印象的だった。
ベッキーさんは,前方を見つめている。運転中の横顔を,初めて見る。影絵のようになった額や鼻,口元の線が,美しい模様を見るように心地よい。その唇が動いた。
「生齧りの本の言葉に,《善く戦ふ者は敗れず》とありました。そうでありましょう。さらに《善く陳する者は戦はず,善く師する者は陳せず》とも書かれていました。見事に布陣出来る者は戦うまでもなく,見事に軍を動かす者は布陣するところまで事態を運ばずして,勝ちを収めるのでしょう。女の身といたしましては出来得る限り,戦さという手立てによらずに,様々なことが解決出来ればと—希望いたします」
段倉は,ふんと鼻を鳴らした。相手は東洋思想の専門家だろうに,と,ひやりとしてしまう。ベッキーさんも,無鉄砲なことをいい出したものだ。
「そのようなことを,偉そうにしゃべるものではないぞ。まして,お前は日本の女だ。大和撫子は,一という字も知らぬように見せてこそ奥ゆかしい。覚えておくがいい。女が生齧りの学問を振り回すほど,卑しいことはないのだ。—実に見苦しい」
「先生。今の質問へのお答えは?」
「う? 戦わずに—ですか。—いや,そんなことは相手次第だ。幾ら,こちらが誠意を尽くしても,向こうがいうことをきかなければ仕方ない。打ち倒すしかない」
車はやがて,麻布の街に入って行った。段倉のいう店に寄せながら,ベッキーさんがいった。
「先生。後学のためにお聞きしたいのです。実はわたくし,不勉強で,先程の言葉の出典を存じません。あれは,一体,何にあるのでしょう?」
皆の注意が,段倉に集まる気配があった。段倉は不快げに,吐き捨てた。
「『孫子』だ。『孫子』っ!」
議論をしているのに,テーマから逸脱し「偉そうにしゃべる」とか「見苦しい」とかの無関係の威圧的言説でもってまず相手を見下さないではおれないところ,バカ右翼のタイプだと感じるのは私だけか(議論で大事なのは論者双方の共通の結論に達することなのに,「勝つ」ことが目的になってしまうバカの典型でもある)。『孫子』には「戦わずして勝つ」なる要諦があり,これは昔から『孫子』バカの好む名言である。ベッキーさんの引用「善く陳する者は戦はず,善く師する者は陳せず」はすぐ『孫子』のこの名言と観念連合する。ところが実際は,ベッキーさんの引用は『漢書』刑法志からのもの,とあとで述べられる。段倉こそ「偉そうにしゃべる」だけのただの「生齧り」だ,というわけである。「幾ら,こちらが誠意を尽くしても,向こうがいうことをきかなければ仕方ない。打ち倒すしかない」— これに類する意見は,バカ右翼だけに限らず,最近のネット住民(バカ Yahoo! コメンタはいうに及ばず)にも多いのではなかろうか。最近ではこのテの安易な武力行使肯定意見が多くて,この物語の時代風潮はもはや過去のものといえない事態になりつつある。やっぱりキナ臭いのはイヤである。
このくだりは段倉をボンクラに見せるのに効果的である。そして,ベッキーさんの意見が正しいと読者に信じさせるのに効果的である。私の意見も「ベッキーさんを大いに支持する,段倉みてぇな奴は日本を滅ぼす。失せやがれ!」である。その効果は小説の藝術性とはあんまり関係ない。もしこういうことをきちんと読者に理解させたいのなら,段倉をボンクラに見せる小説ではなく,「善く陳する者は戦はず,善く師する者は陳せず」の説を現代的に証明する論説でなすべきだろう。でも,北村薫って作家は真面目なんだな。好感がもてる。
ただ,北村薫のこの三部作を読んだ感想には,少し真面目過ぎるというのもある。吉永南央『萩を揺らす雨』を読んだときも,その生真面目さに心打たれながらも,似たような不満があった。「なんかわけわからん」というか,私にとって蠱惑ある文学作品に欠くべからざる「不明」の要素がなくて,「なるほど,そうだよな」とスッキリし過ぎるんである。贅沢だろうか。