須永朝彦『日本幻想文学史』を読む。ちょっと骨のある著作に接したということもあり,今日はその「文学史」としての感想,その他もろもろ。
結論から言ってしまうと,本書はディレッタントのディレッタントによるディレッタントのための文学目録でしかない。学問的文学史ではなく,あくまで「目録」あるいは「読書案内」の意味しかない。「文学史」と銘打たれているのは,ただの学問的身振りである。私のようなしがないサラリーマンにこう言われては須永が可哀想なんだけど,「文学史」というアカデミックなタイトルは,残念ながら,本書のディレッタンティズムからするとあまりに高潔過ぎて,失笑すら催すものである。況や,海外の,学問的厳格さにおいて徹底した,要するにホンモノの,文学研究者からは嗤われる。本書はそういう類いの「文学史」である。
「文学史」というと,大学の文学部を出た人ならわかると思うが,国文科なら日本文学史,独文科ならドイツ文学史が必修科目になっていて,当該民族・言語による「文学」の歴史的俯瞰を,一通り辿らなければならないことになっている。だいたいにおいて抽象的で退屈な授業である。ここで用いられる教科書は,たいていが複数の学者の協同によって「纏められた」ものである。あくまで「教科書」であって,その叙述文体は,高等学校の理科・社会の教科書のように,誰々の説であるなどいちいち断ることなく,あたかも確定した「真実」であるかのように書かれている。でもそれは,極めて多くの研究者の研究が最大公約数的に整理されたもので,個人による「文学史」がいかに難しいかを裏返しに示しているのである。
「歴史」であるからには,まず第一にその対象,その分類(ジャンル,類型),時代区分についての実作考察とそこから組立てた理論があるはずである。第二に,その前提として,対象に認められる特性を文献学的に抽出する原典批判が必須となり,文献学の本性として,研究者の立場は「歴史的」でなければならない。つまり,対象テクストの範列論(言葉そのものの言語学的・歴史的位置づけ),統辞論(語接続の文法・語の繋がりによる意味の変異),テーマ論等について,当該時代に固有の表象・価値・解釈に基づかねばならない。そして「幻想文学史」と銘打つ以上,想定された読者(学究)のもっとも高い関心はこれら著者の二点のアプローチにこそ存する。何故なら,何より「幻想文学」の概念そのものが一般には明確でないからである。そして,この二点の真実らしさこそが個別作品の「文学史」的位置づけを決定する根拠となるからである。
ところが本書は,「幻想文学」の対象範囲・分類規範という原点考察においてまず怠慢であって,ツヴェタン・トドロフ,ロジェ・カイヨワなど海外の理論家の説を周到に引用しているにもかかわらず,引用のしっぱなしで,その評価を半ばで放棄し,結局自らの立場の位置づけを,いよいよ理解に苦しむ「広い概念」に頼むのである。
翻って,私をも含めた現在唯今の読者一般の<幻想文学>に対する理解はいかなるものかと申せば,相変わらず<怪奇と幻想>であり,篠田の要約に誓う「驚異」と「怪異」を含む「現実を越える想像力の文学」すなわち「広い概念」の域に在るのではなかろうか。[ ... ] 日本語としての<幻想>が未だ揺れ動き曖昧さを引き摺っている現状を考え合わせると,当面は「広い概念」に拠るのがよろしかろうと愚考する。
[ ... ] 日本の<幻想文学>について,その原型のごときものから始めて,一通り触れてみたいと思う。<文学>というからには詩歌・戯曲の類をも視界に入れるべきであろうが,この分野に限っては読者の興味は散文とくに小説に向けられているに違いないから,自ずと小説中心の叙述となるだろう。[ ... ] 古典時代に関しては簡略ながらも通史の体を心がける所存ながら,近代現代に至っては急所重視に変ずるかと思う。おそらく自分の嗜好が相応に反映されるだろう。重要なことは<純と通俗の別>などではな<技術的達成と感銘の存否>であり,<美的至福の有無>と申すに尽きる。
「幻想文学」の「現在唯今の読者一般の [ ... ] 理解」が「現実を越える想像力の文学」になるその根拠こそが知りたいのに,また,何をもってテクストが「現実を越える」と判断するのかという基準をこそ聞きたいのに,それを「広い概念」で一括りにしてしまい,規範化を断念しているわけだ。規範化の試みこそが学問なのに。もし仮に「想像力」を規範の根拠とするならば,「文学一般」が「幻想文学」であるというのと何も変わらない。また,「読者の関心」を勝手に極め付けて研究対象から詩歌を除外し(日本の古典的文学観からすれば文学とは和歌と漢詩だったのに?),対象の選定においても「美的至福」という個人的恣意(「自分の嗜好」)を堂々と押し付ける。
それはそれでよい。ならば,第一に,「学」・「史」という文字をタイトルに入れてはならないのである。あるいは,第二に,個人的嗜好でもよいからディレッタントならディレッタントなりの「美的至福」のメカニズムを論証・詳説してほしいのである。この二点ともに欠いているからこそ,本書を「ディレッタントによるただの文学目録」と評せざるを得ないのである。
上記のように学問的基盤も,美的至福のメカニズムの論証も「まったくない」がために,叙述も単なる「幻想文学と思われる」事象の羅列になってしまい,時代の特徴,それに基づく時代区分,総合的判断としての「日本幻想文学」の特性の考察など,「文学史」に求められる構成要素の一切が欠落してしまっている。「ボクが読んで面白かった幻想文学と思われるものを並べてみました」— それならそれでよいのだが,曲がりなりにも「文学史」に対して「学者」のやることではない。作品評の引用も,まったく根拠がない,ほとんどが次のような「ボクもそう思う」的戯言である。
三島由紀夫が「通俗的布置を一挙に破砕するギリシア悲劇風な唐突な大団円は,新しすぎて(!)当時の読者はおろか批評家にも理解されなかつた」と絶讃した『風流線・続風流線』の結構結末なども,実は長編合卷から摂取したものではあるまいかと思わせる。
何のための引用なのかさっぱりわからない。三島由紀夫の言説の正当性に関する論証がまるでない。よって無意味に三島由紀夫を引用することで,「ギリシア悲劇風」云々という誤解を招く余計な評釈をこのくだりのテーマ・泉鏡花作品に纏い付かせるばかりになっている。だから,この引用は,三島由紀夫という「権威」を持ち出して「ボクも三島由紀夫と同じようにそう思うんだよね」と言うディレッタントの「ノボセ」,あるいは幼稚な権威主義としてしか,説明がつかない。
と,ま,首を傾げつつ,失笑を覚えつつ,本書の帯をみると「通史仕立ての幻想文学目録 基準は<美的至福の有無>」とある。平凡社の編集者はさすがである。きちんと「目録」と要約してくれている。しかも個人的感想文でしかないことも「基準は」云々で暗にスッパ抜いている。恐れ入りました。
何か真理めいたものに目覚めたとき,いきなりあらゆる事象を — 個別事象で検証するという過程を経ずに — その観点で普遍化・総合しようとする人がいる。例えば,20 世紀第一四半期の世界史においてコミンテルンによるある国での共産革命の工作の事実を知り,当時の歴史を揺るがす大事件のすべてがコミンテルンの「謀略」によるものだと主張する人がいる(田母神さんという元軍人の鼻摘み「論文」がその例である)。専門家筋から見れば「バカ」ないし「青臭い」の一言で一蹴されるわけだが,バカの間ではまことしやかに広がり,不安定な政治情勢下で一定の影響力を持つことがある。また,隣の人が死ぬほど困っていても何の手も差し伸べないのに,いきなり全世界を救いたいと考える人(ドストエフスキイ『罪と罰』のラスコーリニコフのような人)がいるものである。「文学史」と銘打たれた個人著者による著作を目にして,まず私のアタマに飛来するのは,こうした性急な普遍化・全体志向である。そして,須永朝彦『日本幻想文学史』もその手のものである。
須永も引用しているツヴェタン・トドロフは,『幻想文学論序説』(現在邦訳が — この手の書物としては信じられないが,文庫で — 東京創元社から出ている。かつては邦題『幻想文学 — 構造と機能』として有名だった)で「幻想文学」の定義付けを試み,「テクストの奇怪な出来事について合理的,超自然的の二つのスタンスから読者を揺さぶる構造にこそその特性がある」と定式化した。具体的作品に即し,78 の参考文献を照会し,邦訳で 258 頁を費やして,たったそれだけのことを論証したのである。『序説 Introduction』というささやかな題名は,これでやっと「幻想文学」の文学史を語りはじめられる下地ができた,そういう理論的ポリシーの確立こそが目的であることを示している。
そう,普通,個人でできるのはせいぜいこのような「序説」までである。加藤周一も日本文学史を試みたが,最終的に「序説」と題することに躊躇はなかった。でも,ここには — トドロフにも,加藤にも —「学問的誠実さ」がある。文学現象の記述に当り,何が「文学」であるかという対象とその類型の枠組みを設けることすらいかに難しいか,さらにそれら対象を一貫した理論的観点で俯瞰するということがどれだけ労苦に満ち,困難で,しかもフィクショナルなものか,ということをまざまざと教えてくれるからである。そして「文学史」と題された書物を手に取る学究は,この事情を知るがゆえに,「真実」というよりもまさにその理論的「フィクション」を求めているものなのである。
須永朝彦『日本幻想文学史』も「文学史」というからには,そしてアプローチとして「幻想文学」のジャンルの考察から稿を起こしている以上,安易な普遍主義ではなく,真摯な学問的フィクションを私は期待したのだが,無駄だった。それでも,このディレッタント目録にももちろん美点はある。能等の芸能における<本地>の一覧,歌舞伎における<世界>(固定したテーマ論的背景のセット)の一覧,巻末の妖人魔人怨霊キャラクター略事典は一読に値する。そして浩瀚な作品の一覧はこれからの読書案内として役に立つ。いずれにせよ,個人的興味に基づいた「目録」であるけれど。
小西甚一の大著『日本文藝史』は全六巻。第一巻のみリンクを掲げておく。「文学史」としての基盤(対象,時代区分,研究方法)の確固たる大著である。アイヌ文藝,琉球文藝をも含めた日本文藝の「学問的」俯瞰図であるところが最大の特長になっている。小西甚一はこの業績により日本文学史そのものに名を残すことになるだろう。
村松剛の書は,「死」という観念への立場を巡って,柿本人麻呂から終戦までの主だった文学作品をモノグラフ風に辿ったものである。学問的志向は薄く「文学史」というよりも「文学の系譜」と呼ぶほうが相応しい。しかし,作品そのものへの確かな凝視に基づき,「死」の文学的表象を追う求心力に心打たれる。「感動」が学問的身振りの瑕疵を埋めて余りある,そういう批評作品になっているのである。
本書は,それまでの「ロシア文学史」がソヴィエト体制の社会的リアリズム中心主義に偏重したものだったことへのアンチテーゼとして書かれた(1986 年刊)。その目的の設定と,各国のロシア文学研究者の新しい学説の整理とに基づいて,ロシア文学の新しい俯瞰図を再構成してくれたところに,個の日本人学究による文学史としての意義がある。
複数の研究者の共著による川端香男里先生編の『ロシア文学史』(1986 年)が東京大学出版会からも出ている。これも優れた概説であり,ロシア文学研究者たちのもっとも信頼する教科書になっている。ただし,同時期に同じ著者が関与する「ロシア文学史」が二冊もあることについて,私の尊敬するある学者は「学問的良心を疑う」と洩らしておられた。この批判もある意味で正当だけれども,川端先生の仕事が現時点のロシア文学研究学徒の指針になっていることは疑いがない。
東京大学出版会から出た『ロシア文学史』のリンクも上げておく。残念ながらこれら二冊ともいまは品切れで,古書でしか入手できないようである。ちょうどこの二冊が出たあたりに川端先生の講義を直接聞いた私には,懐かしさが先に立つ。