パステルナーク『全抒情詩集』

私の誕生日に,妻が本をプレゼントしてくれた。未知谷から出版された工藤正廣訳『パステルナーク全抒情詩集』。出たばかりの本である。新聞広告で見つけた妻は,駿河台・男坂にある勤先の出版社からすぐ,猿楽町・女坂にある未知谷の社屋まで出向いて,本書を買って来てくれた。未知谷の刊行物は,国内外の文学論・作品集を中心に,哲学・思想,芸術など幅広いジャンルに渡る。チェーホフ・コレクションなどロシア物の点数も豊富であり,ツール・ド・フランス自転車関係などのディープなシリーズもあり,個性的な出版社である。私も未知谷刊のアフマートワ詩集を読んだことがある。

ボリス・パステルナークは 20 世紀ロシア最大の詩人といってよい。彼の作品ではもっとも有名な問題作『ドクトル・ジヴァゴ』も,散文小説ではあるけれども,「詩の山から散文の平野へのはなばなしい出撃」とヤコブソンが評した通り,詩の「エキゾチックな響き」が至る所に谺する,そういう散文である。やはり詩の山の住人であるところがパステルナークの本性である。本書は日本語で読むことの出来るパステルナーク詩集としては過去最大のボリュームと質とを備えている。私の好きな作品『代理の女(ひと)』(詩集『わが妹人生』所収)から,はじめの四連を引用しておく。

一葉の ぼくはきみの写真と生きている 嬌声たかく笑っている写真と
手頸の関節がかりかり音たてている
指を折り鳴らして やめようとしない そのきみを
客人がひしめき訪ねいて悲嘆に沈んでいる 写真
  
丸太さけて倒れる音 ラコツィ・マーチの猛勇
客間のガラスの器 板ガラスや客たちのせいで
ピアノの上 その火の中を指を走らせ不意にとびあがるその写真
袖の刺繍や小骨の指や 薔薇たち 骰子たちのせいで
  
そしてきみは 髪のかたちほどけて 呆然 狂気じみた
椿の蕾を腰帯にさしはさみ
賛仰むけてワルツを踊った 短いショールを苦悩のように咬み
冗談いいながら そしてやっと息をつきながら
  
そしてきみは片手で 蜜柑(マンダリン)の 皮を揉みくたにして
冷えた果肉の切れをのみこんだ
うしろへ 透きとおるカーテンのむこうへ急ぎながら
シャンデリアきらめき ふたたびワルツの汗が匂いはじめた舞踏の広間へ
  
......
『パステルナーク全抒情詩集』工藤正廣訳,未知谷,2011 年,p. 88。

彼の詩は難解とされる。おまけに日本語訳だと,音とことばのイメージの組合せの面白さが失われてしまう。У которой гостят и гостят и грустят ウ・カトーラィ・ガスチャート・イ・ガスチャート・イ・グルスチャート(客人がひしめき訪ねいて悲嘆に沈んでいる: 上の 4 行目)。だけど,物語の萌芽のような情景が限りなく薄い透明な膜のように映じ,空耳だったかと思われるようなピアノの和音が聞こえ,誰のものともわからない声がそれに交じっている... そんな,観念なのか想像なのか記憶なのか不分明な風景が,一葉の写真の向こうに広がっている。それは日本語でも感じ取れると私は思っている。
 

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パステルナーク全抒情詩集

ボリス・パステルナーク
工藤正廣訳
未知谷
 

妻の実家から誕生日のお祝いに絶品のチーズケーキをいただいた。岩手県のトロイカというロシア料理レストラン特製である。家族皆で食す。これはホント最高の一品です。http://www.d3.dion.ne.jp/~troika/sub5.htm から注文できるので,ぜひお試しあれ。
 

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