作家・泉鏡花は明治六年,金沢の生まれ。その作品は怪奇趣味と妖美を湛え,幻想文学の愛好家にとっては『高野聖』,『草迷宮』,『歌行燈』,『夜叉ケ池』等などで文学史上の忘れられない名前になっている。私も高校生のころから鏡花作品に親しんで来た。
私は,怪奇幻想の系列だけではなく,「通俗娯楽」作品も大好きなんである。江戸草子文藝の濃密な味わいが堪らないのである。初期の作品『貧民倶樂部』(明治二十八年)はそのような作品のひとつ。『江戸迷宮』読後,鏡花が恋しくなり,岩波書店『鏡花全集』第二巻を引っ張り出して再読。
『貧民倶樂部』は痛快娯楽物中篇小説といってよい。毎晩新聞社の探訪員・お丹が,四ツ谷・鮫ヶ橋(江戸のころは夜鷹=下級売春婦のねぐら,明治時代は貧民スラムとして有名だったそうである)の貧民窟に住む貧民たちとともに,貧民救済慈善会を催す華族婦人たちの偽善と虚飾を暴き出し,それを新聞に書き立て,華族婦人を恥辱にまみれさせ,さらに非情な私刑を加えて行く。
作品の魅力は,なんといっても,非日常的でありながら江戸のころより親しまれた文語体によって,明治の上流階級,最底辺の貧民,気風のいい伝統的江戸ツ子が入り乱れる奇想譚を物語ったところに尽きる。ここでは,貧民の群れ,乱闘の描写に横溢する百鬼夜行ぶりは,くだらない人道主義的リアリズムを超越して,むしろ豪華絢爛と言いたいところだ。
「さあ此 からだよ。賣溜 の金子 は幾千 あらうと鐚一錢 でも手出 をしめえぜ。金子 で買 つて凌 ぐやうな優長 な次第 では無 いから,餓 ゑてるものは何 でも食 ひな。寒 い手合 は,其處 らにある切 でも襯衣 でも構 はず貰 へ。」とお丹 の下知 に,狼 は衣 を纏 ひ,狐 は啖 ひ,貍 は飮 み,梟 謠 へば,烏 は躍 り,百足 ,蛇 ,疊 を這 ひ,鼬 ,鼯鼠 廊下 を走 り,縱横 交馳 ,亂暴 狼藉 ,あはれ六六館 の樓上 は魑魅魍魎 に橫奪 されて,荒唐蕪涼 を極 めたり。
「一寸 お婆樣 。」
婦人 は照子 の答 へざるを見 て,伯爵夫人 を婆樣 呼 はり,之 も亦異數 なり。「啊呀 ,返事 をしないね。耳 が疎 いのか,此 の襯衣 を買 つて進 げよう。」
と答 へざれども無頓着 ,鳶色 の毛絲 にて見事 に編成 したる襯衣 を手 に取 り,閉絲 ぶつりと切 りぬ。
これのみにても眼覺 しきに,肩掛 をぱつと脫棄 てたり。慈善會場 の客 も主 も愕然 として視 むれば,渠 はする\/と帶 を解 きて,下〆 を押寬 げ,臆 する色 なく諸肌 脫 ぎて,衆目 の視 る處 ,二布 を恥 ぢず,十指 の指 す處 ,乳房 を蔽 はず,膚 は淸 き雪 を束 ね,薄色友禪 の長襦袢 の飜 りたる紅裡 は燃 ゆるが如 く鮮麗 なり。世 に馴 れては見 え給 へど,素 より深窓 に生育 ちて,乘物 ならでは外 に出 でざる止事無 き方々 なれば,他人事 ながら恥 らひて,顏 を背 け,頭 を低 れ,正面 より見 るものなし。
もうひとつ,お丹が上流婦人・綾子を私刑するくだり。狡猾,小粋でサディスティックなお丹の女傑ぶりは,その筋の小説好きには堪らないはずである。
豫 てより命 じけむ,夜叉羅刹 は猶豫 はず,兩個 一齊 に膝 を立 てゝ,深川 夫人 の眞白 き手首 に,黑 き銳 き爪 を加 へて左右 より禁扼 ,三重 襲 ねたる御襟 を二個 して押開 き,他目 に觸 らば消 えぬべき,雪 なす胸 の乳 の下 まで,あらけなく搔 あくれば,綾子 は顏 を赧 めつゝ,惡汗 津々 腋下 に湧 きて,あれよ\/と悶 え給 ふ。兩 の乳房 を右顧 左眄 て,お丹 はなぶり且 つ嘲 り,「ふむ,大分 大 きくなつた乳嘴 にぼつと色 が着 いて,肩 で呼吸 して,......見 た處 が四月 の末頃 ,最 う確 かだ。それで可 しと,搔合 せて遣 んなよ,お寒 いのに。」
鏡花の作品集は数あるわけだけど,「怪奇・幻想・妖艶」にばかりこだわる現代鏡花読みのワンパターンゆえに,私の知る限り,『貧民倶樂部』は収録されず,この作品は,おそらく岩波『鏡花全集』でしか読むことができないと思う。私が知らないだけで,これを収録作品集も,ネット上の電子テキストもあるやも知れないが。
岩波『鏡花全集』全二十九巻は昭和十七年の版であり,テクストは上の引用の通り総ルビ付きの往時の活版である。表カバーには,雲母をひいた地に桜,桃,梅の文様と,源氏香図「紅葉賀」。見返しには,緑地に青の紫陽花図。扉には,兎,波,月の散らし文様の小袖の図に,題名が印刷されている。用語類の注が一切ない不親切な編集で,世態風俗の用語を調べながら読まないといけないのではあるが,書籍としても版面としても美しい版なんである。鏡花の全集を購入するのはよほどの愛好家であるためか,『鏡花全集』は二,三十年に一度くらいのタイミングでしかも予約出版でしか刊行されない。私は昭和四十八年版(昭和十七年初版の第二刷)を古書で入手したんである。
岩波書店『鏡花全集』