映画『ツィゴイネルワイゼン』

先日,七月十九日,俳優の原田芳雄が亡くなった。ご冥福をお祈りいたします。

彼を偲んで,映画『ツィゴイネルワイゼン』を,所有するパイオニア配給 DVD ソフトで久しぶりに観た。1980 年,鈴木清順監督作品。原田芳雄,大谷直子,藤田敏八,大楠道代,真喜志きさ子ほかの出演。アート・シアター・ギルド制作。この作品をこれまで何回観ただろう。

『ツィゴイネルワイゼン』は,確信するに,邦画ファンにとって忘れられない記念碑的一作である。というのも,この作品ののち,1980 年代以降,テレビの商業主義に毒され,日本の映画はどうしようもないただの優等生作品,あるいは — 言い換えれば,と言った方が妥当かも知れないが — 狂・毒のない,不良ですらない下等作品(そういう藝術作品をクズという)ばかりになってしまったからである。というか,本作品をもって日本の輝かしい映画史が終わりを告げ,暗黒時代に入ったとさえ思われるからである。ハッキリ言って,まだピンク映画のほうがマシである。日本人による独自の映像はいまやアニメだけである。

『おくりびと』などはアカデミー賞・外国映画賞を取るくらいの実力があるじゃないか。日本の映画も捨てたもんじゃない。それは俺も否定しない。確かに観て面白い映画はたくさんある。けれども,これらは素材こそ日本的かも知れないが,テーマやモチーフの扱い自体は「リアリズム」という意味で,誰が観ても「ああ,あれか」とすぐに理解できる。底の浅いハリウッド映画と何も変らない。だからこそ海外の権威ある賞を受賞できたのだ,と考えたほうがよい。それでよいと思う映画ファンもいるだろう。

しかし,1970 年代までの邦画に打ちのめされたことのある者は,どうしても苦笑いしてしまう状況なんである。言わばいまの日本映画は,韓国や香港,台湾,インドなどの「映画後進国」の作品とまったく同じレベル — 同じようにヒューマンであり,同じように心温まり,同じように哀しく,同じように泪に咽び,同じように楽しく,同じように面白い,ということ。韓流がなぜいまの日本で流行るのか — それは映像に対する感じ方,見方において,日本映画が韓国の,ないしはグローバル(つまり米国)のフィクション感覚と同じレベル(むしろ先を越されたというのが正しいかも知れない)になったからである。

かつてのフランスのフィルム・ノワールやヌーヴェル・ヴァーグ,ドイツの表現主義に匹敵する,日本人の手になる輝かしい映像の記憶は失われてしまった。日本人でなければ撮れない映像がロードショーにかかるなんて,もはや一縷の期待もできなくなって久しいのである。わずかに北野武,大林宣彦,あと誰がいるか,ってな感じなんである。「何を偉そうに」とお思いになるかも知れないが,黒澤明,小津安二郎,市川崑,大島渚,鈴木清順,神代辰巳,実相寺昭雄,深作欣二などなどのかつての邦画作品の狂気を知る者には,いまの邦画はホントつまらない。広告代理店が企業スポンサーを取りまとめて拵えた広告塔ではないか。俺はただの時代遅れか?

『ツィゴイネルワイゼン』のどこがそんなに凄いのか。わからない人(いまの若い人たち)にいくら説明しても無駄である。映画は,思うに,「心温まる人間性」や「正義感」,「真実の愛」なんぞの表現ではなく,絵,ビジョン,言葉そのものが命である。『ツィゴイネルワイゼン』の物語は,音楽のように手に掴めもしなければ,匂いのように言葉で表せない何かである。ここでは,映像も台詞も,現実のつまらない人間が見せる表情,発する言葉と共通するところが何もない。これは注意して視るとよい。だから「ああ,あれか」式の日常性モドキから何とも潔く解放してくれるのである。よって「迫真の演技」なんていうホントにくだらないドラマの見方(「リアリズム」と呼ばれている幻想的審美観)からも自由になる。

本作品の,訳の分らない,失笑すら催すところも多い,ハッキリ言って荒唐無稽のくっだらないストーリー。やたらとモノを食うシーンが出て来る。なのに,シーンひとつひとつに色気があり,あたかも四人の登場人物たちの絡みが,一種独特の映像による弦楽四重奏とでもいうような美しい狂躁で,脳髄を侵してしまう。映画ではストーリーなんて二の次なんである。物語と同様どちらが狂っているのかわからないと束の間納得してすぐ我に返るのだが,映画の台詞にあるように,「もう後戻りはできない」ところにいる感じがするのである。

「きみ,何か言ったかね」,「そのあと,兄さんも同じ夢をごらんになったでしょう… わたくしと,同じ,こわぁーい,夢… 不思議ですわ。わたくしの夢を,兄さんが,途中から,お盗りになってしまった」,「レコオドが一枚,こちら様に来ているのですけれど… サラサーテが演奏している,ツィゴイネルワイゼンでございます… 左様でございますか,グラモホンの十インチ盤なのでございますけれど」。

こうした台詞はすべて,まったく迫真性のない — 騒々しいテレビドラマのリアリズムに毒された目にはヘタクソにすら思われるような — 非日常的抑揚を担わされている。それゆえに小説のなかの台詞のように,肉の剥ぎ取られた他ならぬ言葉の骨のようなものが露出して却って頭の中で艶っぽく美しく響くのである。ああ,大正の昔の純粋な美しい日本語とはこうだったに違いない,というような — まったく根拠のない — ヘンな幻想に駆られるんである。歌舞伎や浄瑠璃の様式化された台詞と同じく,映画のなかでしか聞かれない美しい台詞回しというものがあるのだ。

やっぱりリアリティのある台詞のほうがよいって? そう思う方は,1970 〜 1980 年代あたりの通俗人気テレビドラマを観てみるがよい。当時はリアリティをもって台詞を聞いたと思っていたのに,いま見ると不自然極まりないと感じるはずである。藝術におけるリアリティとは,いかに作られたものかということがわかるのである。

この映画を観て,大正・昭和初期の大學獨逸語教授(「ドイツ語」じゃないよ)のイメージにほのかな憧れを抱いた記憶がある。『ツィゴイネルワイゼン』に登場する,衒学的で,Erotik で,狂気にあふれたインテリ。フラスコのウィスキーを呷りながらドイツ語の法学なり歴史学の書物を読む姿は,なんとカッコいいものかと思ったものである。俺はロシア語の学徒であったわけで,その後もドイツ語はまったくわからないんだけど,日本のインテリには「獨逸語」がよく似合うと思ってしまったのである。

俺はこの映画を三十年の昔,大学生のころ札幌のジャブ70という札幌映画フリーク御用達の渋いハコではじめて観た(当然ながらこの映画館はいまは潰れてしまった)。中砂(原田芳雄)の蔵書を返してもらいに青地(藤田敏八)宅を訪問した小稲(大谷直子)が,「ゾルダン,ヘッペのヘキセンプロツェッセがこちら様に参っているはずでございます」と,ドイツ語の書名を語るくだりがある。「ヘッペ」というのが無茶苦茶印象に残ったので — 北海道方言を知る人なら何故かはすぐわかるはずだ —,同じ大学の独文科の友人(Nietzschean であった)に聞いてみた。Hexenprozeß というのは魔女裁判のことらしい。

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