暴力団排除

山口組総本部を大阪府警が捜索 初の暴排条例適用』だそうである。暴力団が市民生活を脅かすのは確かなことなので,こういう警察の作戦はドシドシやればよいと思う。暴力を後ろ盾に己の意志を通す組織は是認できない。

現在,暴力団追放意識は官民ともに徹底されている。島田紳介さんは暴力団と付合いがあるだけで芸能界から追放された。なのに一方で,山口組のおかげで興行ができた美空ひばりが死して伝説と化し,いまだに国民的スターであり続けているのは,ご愛嬌ということか。過去の芸能人とヤクザの付合いを穿り出して名誉を奪うのは,該当者が多過ぎて無意味だからか。昔は芸能人はヤクザに仁義を切らないと,イベントで,頬に切り傷のある,袖口から彫物の見える,明らかにそのスジとわかる何人もの若い者に客席を陣取られ,異様な雰囲気を会場に振り撒かれた。客は眉をひそめて逃げて行く。マネージャがその若い者の頭に「ちょっとこちらへ」と囁いて封筒を渡す。こうして芸能人のそのスジとのお付き合いがはじまるというわけである。華々しいアイドル歌手のウラでヤクザがしのいでいる。彼らはアイドルに付き纏う偏執狂的ストーカーを認めると,そいつをビルの裏側へ連れて行きもう二度と現われないようにしてくれる。夢もクソもない。企業も株主総会においてこれとまったく同じやり方で食い物にされて来た。暴力団対策法や暴力団排除条例によって,こうしたヤクザの行為を締め出すことができるようになった(乱暴狼藉を働くわけでないので,かつては訴えても立件できなかった)。

私は大阪で生まれ育ったこともあり,ヤクザの絡む事件が身近で数多くあった。中学時代,野球部の友人(悪ガキであった)が雀荘のバイクを盗んだ。ところがその店はヤクザが経営する店だった。彼はその後学校に顔を見せなくなった。昭和五十二年,高校一年のころ,住吉区にあった私の高校の目と鼻の先にある銭湯で,ヤクザの抗争事件があり,拳銃で一人が殺された。ちょうど山口組・田岡組長の狙撃事件があり関西の至る所で血臭い事件が頻発していた時期である。

いまから考えると怖い時代だった。ところが当時はどこか当たり前みたいなノリがあり,「ヤーサンに関ったらアカンでぇ,注意しいや」くらいで,そう,自動車には気を付けようみたいな程度であった。そら無防備で叢歩いたら蝮にかて咬まれるわいな,てなもんや。ま,普通に生活している限りにおいて,ヤクザに因縁を付けられボコされるよりは,交通事故に遭う確率の方が高かったことは確かである。親をヤクザにもつ友人も何人かいた。家に遊びに行くとその父親が鍔のない日本刀の手入れをしていた。打粉で刀身をポンポン叩いて和紙で拭き取り油を塗る。私が食い入るように視ていると彼は「そんなおもろいか」と優しく笑って言ったものである。別の友人は質の悪いガキで(でも一緒に野球をやっている分には面白い子供だった),先生が扱いかねて彼の父親に授業参観をさせた。その友人は普段は授業中もことあるごとに先生に歯向かっていたのだが,彼の父が来たその日はまったく猫を被ったようになった。その友人以外のよくいる付和雷同的チョイ悪ガキたちも同じ。父親がヤクザだと皆が知っていたからである。とまあ,私はヤクザの「被害」を被ったことは一度もなく,むしろ友人の親としてよくしてもらった記憶しかない。いまなら,どうなんだろう,私は「暴力団関係者と交際をしている」ことになるんだろうか,私の友人は暴力団関係者として村八分に晒されるのだろうか,それも不条理だよな。

その当時からすれば,暴力団対策法,暴力団排除条例によってヤクザの活動が著しく制限され,いまはヤクザの勢力は地に落ちるところまで来ている。ま,いいことなんでしょう。十年くらい昔,仕事で遅くなり真冬の夜中の三時くらいになってタクシーがなかなか捕まらないと,会社事務所近く,江東区洲崎(昔,遊郭があり,吉原に通じているので親不孝通りといわれた)の屋台でおでんを食いながら一杯やったものである。あるとき店のオヤジから「みかじめ料として売り上げの半分をヤクザに持って行かれる」と愚痴を聞かされたことがある。ヤクザがいなくなったらどうなるか。屋台のオヤジは金を払わなくて済むようになる一方,別の業者との激しい競争にさらされる,ヤクザですらないヘンな無法者のなすがままにされる(ヤクザの「縄張り」でヘンなことをするのは,マヌケかあるいはよっぽど肚の据わったチンピラである),などのデメリットも出て来る。芸能人でいうなら,ムシが付きやすくなる。要するに,縄張りのウラの統制が効かなくなるリスクを負うことになる。新宿歌舞伎町など,ヤクザの縄張りが壊れて,ヘンな客が暴れたり,外国系マフィヤの無法により,却って犯罪が凶悪化しているとも聞く(真実のほどは知らぬ)。

ヤクザにも功罪がある。暴力団排除は大賛成だけど,いい面ばかり見ていてもよろしくないかも知れない。
 

P.S.

昨日 20 日,自由報道協会が主催した小沢一郎・民主党元代表の記者会見で,讀賣新聞記者が政治資金問題で小沢さんにしつこく食い下がって(「説明責任」というあのメビウスの環を回っているのだから讀賣の行動のバカさ加減は当然だ)場を独占したために,協会の暫定代表である上杉隆氏がアタマに来て讀賣の記者との間で一悶着があった(BLOGOS 記事を参照)。

BLOGOS によれば,自由報道協会とは「記者クラブに所属しないフリー記者やネットメディアが中心となってオープンな記者会見をするために誕生したもの」である。「フリー記者らは小沢氏に TPP 加入問題や日中関係など政策についてのみ質問。それに対して新聞記者の質問は,小沢氏の政治資金問題に集中するというように,くっきりと分かれていた」とある。私としては現時点の政治的な問題はフリーの記者の関心のほうが核心を突いていると思う。それに対して讀賣をはじめ大マスコミの政治資金問題づくしは,国家の大問題をよそに政治家の立ち小便の罪にばかり目を向けている一般人の週刊誌的政治観を象徴している。

これら大マスコミは,喩えて言えば,自由報道協会にとって,芸能人イベントにおけるヤクザとまったく同じではなかろうか。参加者の一見正当な権利に基づく振る舞いによって,イベント全体の本当に大事な要素が決定的に壊される,という意味で。どうだろう,こういう場合,暴力団対策法に訴えて讀賣新聞記者を警察にしょっぴかせてはどうだろうか。彼らは「指定暴力団員」ではないから,もちろん,それはできないし,やってはいけない。ペンは剣よりも強し。新聞記者は暴力団員よりも強し。でも,マスコミの誤報・悪意ある報道で人生をフイにした人にとってみりゃ,どちらも似たり寄ったりだよな。