夢の中の日常

芭蕉やプーシキンの研究文献ばかり読み漁っていた。そろそろ柔らかいものをと思った。田中優子『春画のからくり』,中野美代子『中国春画論序説』を読み,それでもってエロづいてしまい安達瑶の『悪漢刑事,再び』— 官能サスペンスというかソフトボイルドというか要するに官能小説を読んだ。そして,こんなぐちゃぐちゃに柔らかいものばかりを食べていると歯が鈍るので,そのあと島尾敏雄『その夏の今は・夢の中での日常』— 夏の暑い過去の忌まわしい幻影を手に取った。どうもいま鼻血が出そうである。

『中国春画論序説』を書いた中野美代子は知る人ぞ知る中国文学者である。私の大学時代,孫悟空にまつわる面白い講義で学生たちに大いなる人気を誇った先生である。澁澤龍彦『悪魔のいる文学史』を耽読された方は多いと思うけれども,これが書かれる契機になったともいえる『悪魔のいない文学史』を書いたのは中野美代子だということを知っている人は少ない。中野は,エロ,グロ,ナンセンスのどれをとってもフランス文学の上のまた上を行ってくれる中国文学の広大な地平を渉猟し,おフランスの悪魔ぶりに見られる知的な品のよさを嗤いのめすような楽しい人間模様を解き明かしてくれるんである。『中国春画論序説』もそのひとつ。

本書の面白さはいろいろなんだけど,蘇軾の有名な詩:

春宵一刻値千金  春宵一刻 値千金,
花有淸香月有陰  花に清香有り 月に陰有り。
歌管樓臺聲細細  歌管 楼台 声細細,
鞦韆院落夜沈沈  鞦韆 院落 夜沈沈。

の「鞦韆」(ブランコ)には,子供の遊び道具というよりも,男女が乗って野外セックスを楽しむ色遊具としての意味が込めれているという分析がいたく面白かった。ついつい香港製の(といっても出演しているのは日本の AV 女優なんだけど)エロ映画『金瓶梅』(2008 年,チン・マンケイ監督作品)の鞦韆のシーンを思い出してしまった。
 

 

安達瑶『悪漢刑事,再び』は刑事サスペンスものとしても読み応えあるエロ小説である。ヤクザや警察上級官僚の痛い懐をついて私腹を肥やし,女を漁るアンチ・ヒーロー的刑事・佐脇が主人公のシリーズものである。ワルガキに輪姦されたのに青少年を誑かしたとして糾弾されながら,名誉回復を拒む謎めいた元女教師・美寿々がヒロイン。小説というものは細部が大事,そしてその集積から大きなテーマが感得されるのだ,というようなことが言われる。しかし,この作品を官能小説たらしめているエロの細部は,どうやらいかなる大きなテーマ論にも積分されそうもない。こうした男女の悦楽図は,実存をかなぐり捨てて,純粋にその言葉の想像力を楽しむに限ります。電車の中でタチ読みするときは気を付けましょう。は,恥ずかしいんだけど,ちょっとだけ引用しておきます。

 佐脇が両手で秘唇を広げると,米粒ほどの肉芽が姿を見せた。それに舌を這わせて愛撫を始めると,すぐに美寿々は反応した。
「あ,ああん……」
 舌先で秘核をころころと転がされただけで,腰をくねらせ,女壷からはとろとろと熱い蜜も溢れてきた。
 プロの女は感じる演技がうまい。客をイカせるのが仕事だが,そのたびに自分もイッていては身が持たない。
 この旅館では,「仲居」と言っても素人のままではいられまい。そして,美寿々は本気で感じていた。
安達瑶『悪漢刑事,再び』祥伝社文庫,2008,68 頁。
   

島尾敏雄は海軍大尉・特攻隊長であった。1945 年 8 月,特攻作戦発動命令を受けたのち出撃命令が下る直前に,要するに「ヨーイ」と「ドン」との間に,終戦を迎えた。『その夏の今は・夢の中での日常』は,そういう生と死の間の緊迫した体験の結実した作品群を収録している。敵に体当たりして死ぬことだけを考えて準備して来た特攻兵は,「ドン」がかからないまま終戦を迎えるとき,もはや生きるものでも死んだものでもない状態で投げ出される。

 その夜発進の命令を受けとれば,私はきっと勇敢な特攻戦が戦えたろう。昨夜は,一年半ものあいだその日のことを予想し心構えていたのになお動揺したので失望が心を食いあらした。不眠のあとの頭痛をのこしたまま寝ぼけまなこで搭乗服を着け,ボタンやベルトを定まった位置に定めながら中腰で兵器の艇に乗って出かけるようなくやしさがあった。生の世界の方にまだ何かいっぱい為のこしたままのうしろ向きの気持ちのずれを,戦場に着くまでのあやしげな時間の中で持ち直さなければならないたよりなさがあった。しかし今夜はちがっている。奇妙な一昼夜のあいだに,ないがしろにされた感情につかっていた。そして生きのこったとしてもこの先に生活しなければならぬ日々の,断絶に囲まれた世の中で耐えて行けそうもない気持ちの底も見たと思った。[ 中略 ] むしろ発進がはぐらかされたあとの日常の重さこそ,受けきれない。死の中にぶつかって行けば過去のすべてから解き放たれるのに,日常にとどまっている限りは過去から縁を切ることはできない。[ ... ]
『出発は遂に訪れず』,島尾敏雄『その夏の今は 夢の中の日常』講談社文藝文庫,94--5 頁。

「あ,ああん……」の官能小説のすぐあとで,死の想念に憑かれた,こうした長大なパラグラフ群を読むと,島尾の書いている通り,日常と夢との境目が確かにわからなくなって来る。死の現実を生きた兵士にとって,生の日常はまるで「断絶に囲まれた世の中」であるらしい。そういう近代的知性(「靖国で逢おう」という死のロマンチズムとは無縁の知性)をもって生き延びた兵士にとって,戦後とは夢だったのだろうか。夢の中の日常。現代に生きるわれわれの甘さは「日常の中の夢」にあることだと思い至る。ま,それでもたまには「あ,ああん……」もよいではないか。