田中優子『春画のからくり』

大阪に帰省して蟬の声にはじめて気付いてなにか安堵を覚えた。やっと鳴いたかと。川崎に帰って来て,自宅周辺でも蟬のわしゃわしゃ騒ぐ音が聞かれるようになった。やっぱり梅雨明けは蟬の声と入道雲こそがそのしるしではなかろうか。

暑い夏,スポーツざんまい。高校野球を観,女子バレーを観,プロ野球を観,と飽きない。ドイツでもブンデスリーガが開幕し,注目の香川選手擁するドルトムントは開幕ゲームで快勝した。ホームで 8 万人の大観衆のなか圧倒的強さを見せつけたらしい。「8 万人の大観衆」!— これだからドイツ代表は強くならないはずはない,と羨ましくなった。

今日の朝日新聞の朝刊が,米国債の格下げを報じていた。ドル安も留まる様子がない。震災復興で生産性を高めなければならないこの時期に,円高は日本経済をさらに悪化させるような不安を掻立てている。でも,この円高のメリットを活かし米国から集中的にいっぱいモノを買って,いっぱいモノを作り,震災復興のために役立てればどうかと,私なんかは思う。海外へ売りに出るには不都合だけど,破壊された被災地の復興では,買うことが主体となるはずではないか。
 

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そうはいってもやっぱりテレビでスポーツ観戦ばかりも,子供たちにバカにされてしまうので,本も一冊読みました。田中優子『春画のからくり』ちくま文庫,2009 年。「お父さん,エッチ」と言われても,私はまったく気にしない。著者は江戸学の専門家。女性なのにこんなテーマも的確に論じていて頼もしい(こんなことを言うことこそセクハラか)。

「春画」とはいうまでもなくポルノグラフィである。江戸の文化遺産であるからには,春画はもっぱら名のある知識人によって文化的視点で論じられるわけであるけれども,やっぱりアダルトビデオ,ピンク映画,エロ写真集,ビニ本(古っ!)などと何も変わるところがない。日本人は幸せなことにこれら現代のポルノグラフィック・メディアが世界的にオープンな環境で(いや,あのモザイクには我慢ならねぇという方もまだまだいるだろうけど)観られるので,わざわざ「古典」に目を向けようという気持ちにはならないかも知れない。一方で,アダルトビデオ等々の性交描写に目を背けたくなるリアリズムを感じて,「不潔!」と思う真面目な人たちもいる。日本の江戸時代の春画は,面白いことに,「目を背けたくなるような誇張された醜悪なリアリズム」としては,現代のポルノグラフィを凌駕しているのである。江戸春画が現代の日本映画で引用されるシーンで,性器にボカシが入っていたという笑い話が本書にあった。

田中が指摘するように,江戸春画は男女の性器をことさら巨大に描くのが常であり,しかも絢爛たる衣裳,閨房小道具が描き込まれることでフレーミングされ,性器がいよいよ際立つようになっている。ポルノグラフィをゴマンと観て来た私も,正直,恥ずかしくなるくらい凄い。河童や犬と女がいたすような獣姦ものあり,何組もの男女が絡む乱交ものあり,望遠鏡による覗見ものあり,豆ゑもんなる数センチの小人が男女の性交を見物して巡るシリーズものあり,とモチーフ,テーマも多岐にわたっていて,その懲りない性分は現代のサブカル的エロ・メディアとどこも変わらない。

田中は適切にも,江戸春画の読者による受容の中心を,絵の分析から「笑い」であると指摘している。部屋でひとりコソコソ観てマスターベーションする,というのではなく,何人かでゲラゲラ笑いながら「この覗見センズリ野郎のバカな顔見ろよオイ」みたいなノリで見ていたに違いないと言っている。

エロティック・アートを見ながら,そこに感情移入して追体験をはかり,性的興奮を得てマスターベーションにふけるという,西欧的なポルノグラフィーに比して,春画を幾人かで眺めて笑いに興じるという江戸時代の鑑賞方法が,遠眼鏡による覗きを描いたこれらの図〔歌川国貞『春情妓談水揚帳』:私註〕からも如実にわかる。
田中優子『春画のからくり』ちくま文庫,2009年,184 頁。

春画に書き込まれたセリフも大笑いさせてくれる。

(男)「おめへのよふなうつくしい,やせもせづふとりもせづ,そのうへ此やふにぼゞがよくて,させやふがでふづ(上手)で,じんばりでよくよがる女ハ,此日本にたつたひとりだ。太極上開,たこぼゞのうまにぼゞで,たまらぬ\/〔繰返しを示すくの字点:私註〕。よこにして二三てふとぼしたら,またほんどりにして壱てふ,茶うすにして壱てふとぼしたら,まちつとやすもふ」
(女)「アレさ,やすまづと,つゞけてたんのふするほどしてくんなよ。サア\/,モウ\/,いんすいのさるがまたがきれたそうだ。アレサ,モツトぐつときつく,ねまでづうと引といれてくんなよ。アヽ\/」
喜多川歌麿『ねがひの糸ぐち』より。同書,91--2 頁。

現代のアダルトビデオや官能小説以上にアケスケで,まさに大笑いするしかない。仮名遣いも,福田恆存大先生への面当てみたいに,痛快なくらいなんのこだわりもないようにみえる。もちろん仮に岩波古典文学大系本にこのくだりが収録されることになれば,「歴史的仮名遣い」にしかるべく「改竄」されるだろう。

性的興奮と「笑い」を結合するのは,江戸の小説の魅力でもある。でもこれは,神代辰巳の日活ロマンポルノの特徴でもあり,江戸に限らない日本の「伝統」のひとつなんだと思い至るんである。日本の「伝統」には過剰な装飾も究極のグロも大哄笑もあるんである。日本の伝統的文化の特徴を「清楚で奥ゆかしい」みたいなことを自信満々で語る人がけっこういるんだけど,私はそんな独善を耳にするたびに「こいついったいどんな『古典』を読んでいるのか。多分,高校で『源氏』の一節をよくわからないなりに読んだ程度に違いない」と鼻で嗤うようになってしまった(この独善は「伝統主義者」に多いのがまた笑えるんである)。

江戸の春画を描いたのは,当代一流の絵師だった。菱川師宣,喜多川歌麿,葛飾北斎,エトセトラ,エトセトラ。これ,いまふうに言えば,— こんなこと考えられないけれども — 黒澤明,小津安二郎,溝口健二なんかがじつはブルーフィルムも撮ってたんだよというくらいのインパクトがある。藝術のディアパゾンがおそろしく広大なのが江戸の文化なんだ,と改めて感心してしまう。

けふもいつぱいかいたので,まちつとやすもふ。