仕事で契約書などの内容確認をしなければならないことがままある。また特許法などの条文を読まなければならないこともある。こういう事情で法令用語の基本を覚えさせられて来た。内閣法制局が『基本法令用語』というものを纏めていて,これが大きな指針になっている。これを見ると,法律に照らして判断しなければならない日本語文(契約書など。以下,仮に「法的文書」としておく)は,一種独特の文体をなしており,論理的正確性を担保するためにさまざまな「符牒」を決めていることがよくわかる。
たとえば,法的文書においては「場合」,「とき」,「時」は,厳格に使い分けることになっている。「場合」,「とき」は仮定的条件を示し,「時」は一定の時刻を示す。ここで,仮定的条件が二つある時,より大きな条件を「場合」で,小さい条件を「とき」で示すということになっている。「とき」と「時」は表記の違いでしかないのに,決定的な意味論的差異を付加されているわけである。もうひとつ,「及び」,「並びに」,「又は」,「若しくは」といった接続詞も法的文書ではかなり厳格に用いられる。「A及びB若しくはC又はD」という記述は,((A and B) or C) or D という論理条件を規定しているのである。
しかしながら,こうした法的文書の用語法は,甲・乙で相互に確実な理解を共有するための工夫,ルールであって,このあり方そのものはどんな文章にもついて回る意味論上の基本的属性・指向である。つまり『基本法令用語』は,措辞というものが,固定的意味を,本来的に,それそのものとして,もっているのではなく,本質的には「ある条件のもとでそれに付加した取り決めを学ばなければ現実的意味をなさない」ものであることを示して余りある。「文体」,「様式」とは,こういう語彙的ルールを含む書記法の多様な統制の総体を,「文学的」あるいは「美学的」に表現したものである。
このルールとしての言語のあり方は「法的文書」特有の属性だと思う人があるかも知れない。私は違うと思う。文学をはじめとして,あらゆる言語行為は言葉の辞書的意味以外の意義を担わされている。「辞書的意味」というのは「製品の設計書」のようなもので,「実際の製品」である実際使用の言葉においては,別途意義づけられた意味のほうがむしろインパクトが大きい。そして,別途の意義づけがある統制を有しているとき「文体」とか「様式」というのである。
世の中には「文体」を作家の体臭のような「個性」だと思っている人が結構いる。「文は人なり」という言を無邪気に信じている人のこと。ま,「感性」は人の勝手ではある。私は違うと思う。「文体」とは感覚的個性などではなく,作家ないし時代の統辞・範列の言語的統制であって,人間の顔のような特徴ではなく知的「ルール」なのである。
仮名遣い・表記について,「漢字で書ける物は何でも漢字で書けば意味が明らかになるので善い」としたり顔で言う人がいる(「正字正かな」派といわれる人たちである。字音仮名遣いの煩わしさから逃れられるからこんな極付けをするわけである)。「時」も「とき」も等価だと断言するような彼らは,シビアな法的文書なんかに関わりのない学生さんみたいな暢気な人だろう。ま,人の勝手ではある。「勝手」というのは,「相手」ないし「公」に対する責任を意識しないで済む,ということである。唯我独尊。羨ましいくらいの幸せ。でも,世の中も,文学も,それで通用するほど甘くない。仮名遣い・表記もその背景にあるのは「ルール」であり,それゆえにこそ「時」と「とき」のようにある場合には万人に理解されるべき重大な意味論的差異を生み出すのである。
『基本法令用語』は法律学関連書籍の付録に付いている。六法全書にも収録しているものがあるかも知れない。『基本法令用語』を収録している書籍を挙げておく。
付記:
言語解釈・表記における「ルール」の存在がわからない,勝手な解釈をする人がゴマンといる。私が作成した旧字・旧仮名変換ツール misima について,「ミシマなら mishima だろ」というXXにネットで遭遇したことがある。日本語のローマ字表記はヘボン式というものが「一般には」流通していて,これによれば「シ」は shi であり,この言をなす人は暗黙のうちに一般的流通様式が「正しい」ものとして身に染み付いていてこれを疑うことがない。
しかし日本語のローマ字表記はもとより決め事=ルールにすぎず,その場合,昭和 29 年に内閣訓令として告示された綴り方によれば「シ」は si なのである(よって,学校でもまずはこの訓令方式を習うはずである)。私が misima と名付けたのは,これが「ミシマ」でも「ミジマ」でもなくあくまでただ単純に misima にしたかったからであるが,「ミシマなら mishima だろ」などと言う,「正しい表記」の身に染み付いた,「ルール」の意義のわからないXXを,暗に,陰険に,愚弄したかったからでもある。
「増田・ますだ」という姓を,日本人なら誰でも,ローマ字で Masuda と綴る。でもフランス人やドイツ人なら,この表記をみてはじめから「マスダ」と発音できる人はまずいないと思う。おそらく彼らは「マズダ」あるいは「マジュダ」と発音するはずである。ヨーロッパの多くの言語では母音に挟まれた単一の s 表記は,[z] と発音するのがほぼ決りになっているからである。「マスダなら massuda or massouda だろ」というわけである(ヨーロッパ人で Masuda を「マスダ」と読めるのは,薔薇 rosa をローサと発音した古代ローマ人だけだろう...)。かくして,表記と発音の関係なんて本来いい加減な,究極において恣意的なものである。それがいい加減ではなくなる根拠は「ルール」というものが存在しているからにほかならない。