田中善信『芭蕉二つの顔』

芭蕉の生涯は謎が多いとされる。俳諧師として名を上げる前の若いころはとくにそうである。後年,神と崇められ本当に神社に祀られるようになってからは,生活感を無視した文学的理想像からわずかな足跡を意義付けようとする傾向もあるようである。なかでも日本橋から深川に転居し貧乏生活を始めたらしい天和元年(1681 年)あたりの事情の解釈には,拝金的点取俳諧の堕落した風潮への芸術家としてのプロテストがあったのだとかいう,きれいごとが主流をなしているようである。先日ここでも取上げた嵐山光三郎『悪党芭蕉』は,そうしたお高く止った祀り上げに唾を吐きかけるような内容ゆえに,痛快だった。しかし,嵐山の筆勢はどうも作家的想像力が勝ち過ぎているようにも思われ,芭蕉の「詩と真実」を求めて読む立場からすれば眉に唾してかからないわけには行かなかった。そこで,もう少し実証的な伝記を読みたくなり手に取ったのが,田中善信著『芭蕉二つの顔』であった。

もとより伝記的史料が少ない事情から真実を追究しようとするために本書が立脚しているのは,他ならぬ時代の法制度や社会習慣である。多数の作業者を必要とする神田上水の浚渫事業を取りまとめ,お上のお墨付きを得るに至る実業家・芭蕉の姿,その世俗的意味を,田中は当時の触書の文献分析,同じ事業をなした人たちの社会的ステータスの検証を通して,見事に描いてみせる。引くべき補助線として,まことに実証的学者らしいアプローチである。

本書の極めてユニークな説は次のようなものである。芭蕉が神田上水の浚渫事業で大成功し,一方で俳諧師としても江戸を代表する地位を獲得し,実生活で充分成功しながら,突如,辺鄙な深川・芭蕉庵に移住し世の表舞台から身を引いたような生活に転換したのには,背景として,彼の妾であった寿貞を甥の桃印が寝取って駆け落ちしてしまったことがある,ということ。当時,姦通は極めて重い罪であった。芭蕉は甥の所行を荒立てたくなかった。そしてさらに桃印の失踪が定期的な伊賀上野帰国義務の法度にも触れ,死罪にもなりかねないこれら所行を隠匿するために,芭蕉は桃印を死んだことにするというさらなる犯罪で隠蔽するしか手がなかったというのである。

『悪党芭蕉』でも同様のことを読んだのだが,嵐山は田中の説を採用したということだろう。要するに,芸術的信念なぞではなく,他ならぬ複雑な家庭内事情の罪と罰を巡ってこそ,芭蕉は国内亡命のような形で深川に身を潜めたというわけである。もちろんこれは,明白な証拠のない,状況証拠のみから固められた説明であるわけだけれども,そして俳聖の事蹟としてはことの外衝撃的にみえるわけだけれども,「芸術的信念に基づいて」などのような芭蕉を必要以上に持ち上げたい「文学的思い込み」に比べれば,遥かに真実味があった。

本書に対する不満は,これら伝記的推理と芭蕉句解釈との関係をこそ踏み込んで論じて欲しかった,という点である。でも,些事を丹念に観察し伝記的解明を丁寧に行うこういう研究者がいるからこそ,その説に触発された芭蕉の新しい解釈が生まれ出て来るのである。本書を読み「へぇー」と驚きはしたが「この句はそういう意味を秘めていたのか!」という感銘はなかった。しかし,本書が上記の通り素晴らしい仕事であることは間違いないと思う。