『一個人』大江戸入門,下品なクラシック音楽雑誌

会社の帰りに,虎ノ門にある書店『書原』に寄り道。買う買わない別として,本屋で散歩気分で本の背表紙を見る。ちょっと大人のためのヴィジュアル雑誌『一個人』5 月号が,江戸の風俗,町の風景を特集していたので,思わず購入。
 


音楽関係の雑誌コーナーに寄ったら,平積み雑誌の表紙の「吉田秀和は本当に偉いのか?」という特集タイトルが目に留まった。『クラシックスナイパー』なんとかというクラシック音楽雑誌であった。なんとも下品な特集を組むものだと呆れつつも,少し立ち読み。

「はたと気づいた。シャルル・ボードレール,ポール・ヴァレリー,[あの人,この人,なんとか,かんとか…] にはあり,吉田秀和にはないもの。それは悲劇性である...」— 鼻から噛み殺した嗤いが漏れ出て,私は雑誌を元に戻した。果たして,書いてあることもただの戯言なのであった。誰が書いた文章なのかチェックするのを忘れた。

クラシック音楽評論家ってなんでこんなに鼻持ちならねえ野郎ばかりなんだ? — はたと気づいた。『裏 DVD 中出し生姦通信』(アダルトDVD雑誌のひとつ),『週刊大衆』(言わずと知れた,おまんこ・ヤクザ記事専門雑誌)にはあり,『クラシックスナイパー』にはないもの。それは羞恥心である。

ここまで言いたくなるのも,私は吉田秀和を買っているからである。彼のモーツァルトやシューベルトについての文章を読んでいると,これらの作曲家を聴きたくなるから凄い。小林秀雄のモーツァルト論にも似た効果があった。吉田秀和が「本当に偉いのか」どうかなど,私にはまったく興味がない。吉田を読む人は皆そうだと思う。なのに,こんなタイトルを付けてアンチを掻き集めようとする雑誌の意図がじつに不愉快であった。

確かに,吉田も小林も,モーツァルトの「音楽」というよりモーツァルトを「聴く我」を語っているようなところがあり,浪漫文学ぶりの大時代的古色は否めない。けれども,『クラシックスナイパー』はどうして『吉田秀和再考』くらいの特集タイトルにして,賛否両論を取上げないのか? ジャーナリスティック。そこが「下品」だというのである。サブカル・エロ・おまんこ雑誌と違ってこの手のクラシック音楽雑誌は「第一藝術」の堂上にどっかと座っているだけに,いよいよ「下品」なんである。