白居易『長恨歌』

中国唐代の大詩人・杜甫の適当な選集を探していて,古書で岩波中國詩人選集を手に入れた。選集 16 巻 + 総索引 + 概説の全 18 巻なんだけど,私は王維と李商隠の巻を欠いた 16 冊を安値で購入したんである。杜甫,李白,白居易,陶淵明,詩經國風が揃っているのでとりあえずよしとした。昭和 32 年刊の古い版であり,函の痛みが酷いけれども本そのものはまったく損傷はない。新書版クロス装丁函入り。同じような版形のシリーズものに漱石全集,鷗外選集,石川淳選集,大江健三郎同時代論集などがあり,当時岩波書店が好んで出した形態である。私も文芸書として新書版型が好きで,このなかから鷗外と石川淳の作品集を所有している。

本選集では,原典白文(正字体),書き下し文(常用字体・現代仮名遣い),語句解説,現代語訳が掲載されている。中国の古典はやはりこの 4 点セットで読みたいものである。白文と書き下し文とで字体を分け,書き下し文では現代仮名遣いとしているのも,適切だと思う。

早速,白居易の下巻から『長恨歌』,『琵琶行』を読んだ(あれ,杜甫を求めていたのではなかったか?なんて声が聞こえて来そうなんだが)。白居易は平易にしてどこかお涙頂戴的なセンチメンタルがあるけれども,それこそが古来日本人の感性に訴えた親しみやすさだと私は思う。

春寒賜浴華淸池  春寒くして浴を賜う華清の池
溫泉水滑洗凝脂  温泉 水滑らかにして 凝脂に洗ぐ
侍兒扶起嬌無力  侍児扶け起こせば 嬌として力無し
始是新承恩澤時  始めて是れ新たに恩沢を承けなん時
『白居易 下』高木正一注,岩波中國詩人選集 13,1958 年,95 頁。

これは,並み居る宮中の美女から楊貴妃が選び出されたというロングショットから,彼女の接写に転じたくだりである。いきなり入浴の場面というのが凄い。人格を殺がれた腰元に裸の肢体を預けて世話をさせるところが,思うに,王朝風耽美の極みである。ピエール・ルイスが何頁も費やして書いたような高級なエロスをさらりと歌っている。『長恨歌』は高校の漢文教科書や副読本で誰もが「習った」はずであるが,玄宗皇帝と楊貴妃との国を傾けた夢幻的恋愛潭がわが国の文学史に大いなる影響を与えた云々といった「お勉強臭さ」に閉口して,このような妖しいくだりを味わう余裕はなかったのではないだろうか。

『長恨歌』のこの深閨美女抜擢のモチーフは『源氏物語』桐壺巻に決定的影響を与えたと言われている。ところが,白居易がいきなりかくも艶かしい場面で読者にサービスを振りまいたのに対し,紫式部がヒロインに焦点を当てるとき,まず真っ先に宮中の居並ぶ女御・更衣の嫉妬によるイジメ,イヤガラセを描いたところ,白居易との視線の違いに改めて興味を掻立てられる。なんだ,いまの日本人のイジメ根性と同じじゃねぇか,と『源氏』の「近代性」に感心してしまうわけ。

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