最近,プライベートで芭蕉と漢詩に凝っている。漢詩平仄音韻チェックプログラムを書きながら,『連歌論集 俳論集』(岩波古典文学大系 66, 1961 年),『芭蕉文集』(同 46, 1959 年),『五山文学集 江戸漢詩集』(同 89, 1966 年),『良寛詩集』(岩波文庫, 1933 年),『江戸漢詩人選集 3 服部南郭/祗園南海』(岩波書店, 1991 年)など読んでいた。古文ばかりだと疲れてしまうので,角川(いまや俳句関連書籍のメッカ的出版社となった)から出た俳句教養講座第二巻『俳句の美学・詩学』(2010 年)も,並行して,会社の行帰りに電車で読んだ。この本は妻からクリスマスプレゼントでもらったものである。
『俳句の美学・詩学』は俳句が詩としての独立性を獲得するに至る詩法とその伝統を,学究的に正面から論じている。俳句の言辞・手法・詩としての本性について述べた書物として,私はこれほど啓蒙的で纏まったものに出会ったことがなかった。本書の美点は,実作を通して得られた俳句美の「信念」を吐露するだけの俳人ではなく,学として俳句を捉えようとする研究者が,俳句というものを所与の詩としてではなく客観的に見つめ,文献に基づいてその詩性を明らかにしようとしているところに他ならない。その特質は最初の論考「五七五という装置」(仁平勝)冒頭によく現われている。
俳句はなぜ五七五なのか。その理由は簡単で,もともと五七五七七という短歌の上句だったからだ。[ ... ] 五七五が詩の定型である根拠は,それ以外のどこにもない。日本語の音数律は,五音と七音の組み合わせがもっとも美しいとか,さらに七五七の長・短・長よりも五七五の短・長・短のほうが詩的な韻律であるとか,俳句の美学を韻律論として説く向きもあるが,そんなものは講談師の見てきたようなウソでしかない。
俳人が俳句を論ずると,まず己の俳句趣味に基づいてそれを支えるに,「五音と七音の組み合わせがもっとも美しい」などとしたり顔して「講談師の見てきたようなウソ」を吹き込もうとするものである。本当の俳句の素晴らしさを理解するためには,このような「信念」に基づく態度ではなく,仁平のように対象を突き放した文学史的・文献学的観点に立脚すべきなのである。
『五七五という装置』(仁平勝),『切字の詩学』(川本皓嗣),『俳諧における切字の機能と構造』(藤原マリ子),『俳句と漢詩文』(日原傳),『取合せの詩学』(谷地快一),『無季俳句をどう読むか』(櫂未知子),『俳味と滑稽』(中森康之),『俳句の余情』(谷地快一)は一読に値する。これらはみな,『俳句はどうあるべきか』ではなく,『俳句はどう捉えられて来たか』に重点があり,その態度は文化全般の理解に必須の立場だと私は思う。信念の吐露はその人を表すに過ぎないのである。
本書は一篇 15 頁くらいの論考の集成である。俳句の歴史に詳しくない読者があまり緊張を持続させずともよいくらい,わかりやすく簡潔・簡明に書かれている。主題とそれへの論者の切込み方の面白さから,もう少し紙幅をとってじっくり論じて欲しいと思われる論考がいくつもある。そこが少し不満であった。参考文献がきちんと上げられているので,それは贅沢な要求かも知れない。