嵐山光三郎の書いた『悪党芭蕉』を読んだ。
芭蕉の生涯はナゾが多いとされていて,そのおかげで,伊賀上野出身であることから紀行の裏には隠密(要するにスパイ活動)目的があったとか,『奥の細道』はホモ行脚であったとか(芭蕉の衆道好きは本人自身が語っているし,明らかな衆道句を詠んでもいるので,あながちいい加減なでっちあげでもないけれども),まことしやかに語る人もいる。「悪党」という表題で目を惹く本書はその筋に連なるものと評してよいかも知れない。
本書によれば,芭蕉の弟子たち,彼がとくに可愛がった弟子たちには,危ない人々(犯罪者,あるいは山師的人物)が多かった。また,掟に反して甥の架空の死亡届を出したり,罪人と隠密に旅行したり,といったエピソードも残っており,芭蕉本人も露見すれば罪を問われるような行状に満ち溢れていた。
本書で「悪党」というのは,そういう俗世間的エピソードで「日本の生んだ三百年前の大山師」という芥川龍之介の芭蕉評を肉付けしたことに依る。でもそれは,俳諧の神,偶像としてではなく人間として芭蕉を見つめ直したいという作者の心の現われである。私は本書を読んで,「悪党」というほど芭蕉がワルであったとの印象はまったく覚えなかった。「悪党」には,いわゆるワルではなくて,アウトロー的集団を束ね世直しを図るカリスマという意味がもともとあるはずだ。
本書の美点は,「悪党」という挑発的なタイトルを付けてしまうジャーナリズムとしてではなくて,そういうエピソードを芭蕉藝術の理解に関係付けて語ったところである。だから,事実関係の文献的論証に甘くとも,仮説として受入れた上で楽しむことが出来る仕上がりになっている。とても藝術的とは思われない当時の俳諧「業界」事情,子弟間の醜い諍いも,作品の読みを通して解説してくれるのだが,じつはそんな下劣な事情が凄い詩に現われているところにこそ,江戸時代の恐るべき文化爛熟の姿が垣間見える,そういう逆説的な感動をもたらしてくれる。
芭蕉の時代は点取り俳諧(師匠が弟子の句に点を付けて儲ける)や俳諧賭博(隠された上五の句を判じて賭けをする)が大盛況であった。文藝が博打の対象にさえなったということに,逆に江戸の人々の知的レベルの高さを思い知らされ,大いに驚くんである。
この世に賭博はいろいろとあるが,文芸がギャンブルの対象となったのは世界じゅう見わたしても,俳諧賭博以外には見当らない。それほど元禄の町衆は俳諧好きだったわけで,むしろ文芸国家として自慢すべきことでもある。
歌仙の注釈は本書の圧巻である。『猿蓑』の解説は歌仙の基礎知識を与えてくれる。芭蕉の死の直前に大坂で巻かれた歌仙のなかに,之道と酒堂(芭蕉の弟子,二人の醜い争いの仲裁のため芭蕉は大坂に出向いて,病いに倒れ死ぬことになった)の火花の散る諍いを巧みに読みとるくだりは,連衆という集団によってできあがる歌仙という文藝スポーツのダイナミズムの面白さを認識させてくれる。日本の詩精神はなんと豊かだったのかと感嘆してしまうのである。
私は「悪党」といういささか挑発的なストーリに基づくアプローチに下品さを感じつつ本書を手に取ったのではあるが,日本の詩の伝統を考えさせられる意味で,本書はめっちゃ面白かった。