朱川湊人, My Chemical Romance

娘が高校の仲良しの女の子から CD を借りて来た。My Chemical Romance の第一と第三のアルバム。CD を再生したいのだが,アンプのセレクタが Phono になっていて,「どうして鳴らないの?」と娘は苛立っていた。「CD 聴くときはセレクタを DAD にするって教えただろ」(YAMAHA プリ・アンプ C-2x には CD ではなく DAD: Digital Audio Disc という往時のメニューがある)。機械にホント弱い。
 

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先日,『かたみ歌』を読んで以来,朱川湊人作品に首っ引きになっている。『花まんま』(文春文庫,2008 年),『わくらば日記』(角川文庫,2009 年),『水銀虫』(集英社文庫,2009 年)と立て続けに読んだ。その他の作品も Amazon で発注したところである。朱川マイ・ブームは依然継続中なんである。

『花まんま』,『わくらば日記』は『かたみ歌』と同じ味わいをもつノスタルジック・ホラーである。悲しい物語であっても,人情の熱いハッピーな読後感を残す。一方,『水銀虫』はそれに反して,この平成の現代世相の物語であり,グロテスクで恐ろしい終末感が特徴になっている。ただし『水銀虫』でも,「わかる人にはわかる」描写は健在である。例えば,上野広小路のピンク映画館を抜けると不忍池に通じるという『枯葉の日』の件など,「ああ,あそこね」とその雰囲気を共有できる人には堪えられない。

『かたみ歌』には宮本輝『夢見通りの人々』にみられるような,ノスタルジーに隠れた時代の不条理に対するスコープがない,というような,愚かな感想をそのとき書いた。朱川ファンからは,一知半解の誹りを免れません。『花まんま』,『わくらば日記』のような大阪や東京・荒川を舞台にした連作短篇には,差別のような現代日本の陰部もテーマになっていた。

『トカビの夜』(『花まんま』所収),『夏空への梯子』(『わくらば日記』所収)でのその扱い方は,差別に対する批判精神に裏打ちされているのだけれども,いわゆる人道主義的・理想主義的・ユートピア的なキレイゴトでないところが,私のよう身近で差別を見て来た人間にはよくわかる。私と同じく,おそらく,作者・朱川湊人も在日朝鮮人・部落差別に対して,積極的に加担しはしなかったかも知れないが,声を上げて抵抗したわけでもない人々に属するのではないかと思った。そしてそういう己の弱さを長ずるに及んでも心の澱としてもっていて,自分はそれゆえに地獄落ちに運命づけられているのではないかという畏れのようなものが書くことの動力になっている。そう感じないではおれなかった。そこに深い共感が湧いて来る。作者は死後の世界,霊魂の存在を「本気で」信じているように,私は感じるのである。

『薄氷の日』(『水銀虫』所収)は,自分を「勝ち組」の運命に生まれついたと信じて疑わない美女が登場する。中学時代に陰湿なイジメで級友を自殺に追いやった。しかしそれを,自分の責任だとは露ほどにも認めない自信満々の幸せ者である。読んでいるうちから天の鉄槌が下ることは予想できるのだけれども,そこには悔悛と謝罪によって救われる可能性のモチーフがある。罪はこの異常なまでに自己中心的な女主人公に跳ね返るわけだが,誰でもそういう自分では意識しない深い罪を堆積させている,よく顧みよ,というように読める。じつはそこにこそ作品の怖さの本質があると思われる。朱川湊人の恐怖は自分自身のなかに意識せざる罪を意識できる人にこそ訴える。そういうヒューマニズムがある。
 

わくらば日記 (角川文庫)
朱川 湊人
角川グループパブリッシング