中国怪奇小説集

岡本綺堂『中国怪奇小説集』をプロ野球観戦の合間に読み終えた。本書の題は昭和 10 年初版として出たときには『支那怪奇小説集』というものだったが,この光文社文庫版では改められている。中国を「支那」と称することについては,中国からのクレームもあり,忌避されるようになって久しい。

中国文学の伝統は,「漢文・唐詩・宋詞・元曲」という言葉にみられるとおり,ジャンル的偏愛があるといえる。けれども,いわゆる白話小説のような娯楽文学もまた二千年以上の劫を経るなかで書き継がれていたわけで,たいへんな楽しみをもたらしてくれる。白面細腰の中国美女の亡霊に苛まれ,蜈蚣が体を這い廻り,蟒蛇に呑込まれ,羅刹鳥に目を抉られる怪異潭は,そのなかの主流といってもよい。現中国政府は,史的唯物論に則り,宗教を精神のアヘンと断じ,神や霊の存在を認めていないわけだけれども,中国人は昔から,理性的には霊的なるものを遠ざけながらも,怪奇妖怪潭が好きである。『論語』に「鬼神を敬してこれを遠ざく,知と謂うべし」(『論語』雍也第六,金谷治訳注,岩波文庫版,1999 年,p. 118)とあり,理性的には超越的存在に対して距離をおくことの大切さが教えられており,これはつまり,知は鬼神を遠ざけるべきとはいっても,これに接近し凝視しようとする人間感情を否定するものではない,そういうことだろう。

『中国怪奇小説集』は,青蛙堂(せいあどう)に会した客人たちが各々,六朝から清朝にかけての長い時代のうちに出た数々の小説集 — 『捜神記』(六朝),『酉陽雑俎』(唐),『剪燈新話』(明),『子不語』(清)などの有名な小説集 — から怪異潭を選んで物語るというものである。

いくつか,私が読んで面白かった物語をあげておく。『無鬼論』は,鬼(幽霊)が鬼の存在についてリアリストと論争して論破されるという諧謔が効いている。『武陵桃林』は,桃の花に溢れた山の洞窟(膣の象徴であろう)の向こうにユートピアが広がっていたという物語。性愛は時代の峻厳さを超越するという寓意か! 『悪少年』は,鬼が現世の悪ガキを誅殺する物語。「鬼界の三年は,人間の三日」と,鬼と人間の時間概念の相違をついたところに面白みがあった。戦の籠城飢餓のなか主の武将に殺され部下の食肉に供せられた女が,武将の子孫十三代を付け狙ったのちにその復讐を遂げたという物語『張巡の妾』は,簡潔ながらその伝奇性は壮大であり,誰かこの翻案小説を書いていないか興味深かった。『鬼国』は,人間が鬼の国に入りこんだところ,鬼からは彼の姿がみえず逆に亡霊扱いされるという,近代的な逆転発想が垣間見える奇談である。窓からぬっと扇のような手が出たという『窓から手』,月夜の夜陰,壁際に人の耳,鼻が堆く積まれていたという『剣侠』など,現代ホラーのようなぞっとする怪奇物語もあった。

私の趣味としては『牡丹燈記』(明代の『剪燈新話』所収)が収録作品のなかでもっとも好きである。周知のとおり,これは三遊亭円朝の落語などで有名な『牡丹燈籠』の原作である。私は幼い頃これを大映映画で観て,あんな綺麗な幽霊にならば取り憑かれて死すとも本懐であろうと,子供心にも思ったものである。これは,いまになって思うに,性的抑圧を受ける若者(本当はしたくてしようがないのに倫理,信条,生活条件等の足枷ゆえにセックスから疎外された若者)の,性と死とのロマンティックな結合の幻想だろう。こうした現世の若者と異界の美しい妖女とのエロティックな恋愛潭は,『雨月物語』の『蛇性の淫』にも同じようなモチーフがあり,日本人の好きな物語類型のようである。日本の『牡丹燈籠』では,ファムファタールはやはり吉原の遊女に変換されている。中国オリジナルの『牡丹燈記』には,男,女,下女の亡霊が人をかどわかした罪で鞭打ち刑にさらされる後日潭があって,ちょっとその散文的情景にゲンナリしてしまった。しかしながら,こうしたファムファタールはアメリカなんかの文学作品ではまずお目にかかれないであろうと考えるにつけても,中国と日本のファンタジーに惚れ直してしまったのである。