昨夜,日本を代表するメーカー M 社顧客に納めたシステムがダウンし,子分に復旧処置をさせた。今朝はその対策会議を実施した。取得した情報からは何もわからない。再発の可能性大。処理の重いシステムトレースを本番運用に入れ込むのにも抵抗があり,次に再現したときはメモリ・ダンプを取得するよう顧客にお願いするくらいしか手だてがなかった。M 社情報システム部長 T 氏の瞋恚の形相が目に浮かぶ。憂鬱。ユーウツ。U-utu…
最近,会社から帰宅の際は,健康のため赤坂溜池山王から新橋まで歩くことにしている。17, 8 分のウォーキングだが,これで一日 8,000 歩くらいは積み上がる。烏森通り新橋三丁目交番前で信号待ちしていたら,「おい,小池!」と叫んで警官が追って来た。「え? お,俺か? 小池?」。俺,なんか,やったか? 昔,国家一種公務員顧客を接待し,酒と女色で豪遊させたことはある。銀座でホステスを抱かせ,錦糸町で金髪美女に触らせ,吉原でお風呂に入れてやった。タクシー券を無闇矢鱈と振る舞った。確かに,いまなら公務員倫理法違反だ。でも,人を殺した覚えはないぞ。フロッピーディスクの改竄もしてねぇ。めまぐるしくそう思いながら,何故か,我知らず逃走しはじめていた。
烏森神社の入り口にある薄汚い立呑屋に逃げ込んだ。「どうぞ」という声に目を向けると,なんとコユキがハイボールを差し出してくれた。そしてそっとこう耳打ちした —「隣のニュー新橋ビルの宝くじ売り場に『余裕のユウちゃん』がいます。彼女に相談してみてはいかがですか」。
宝くじ売り場には果たしてヤマダユウがいた。勇気を振り絞る。「あの,警察に追われています。コユキさんがあなたのことを教えてくれたんですが...」としどろもどろに言うと,「アタシはお金を貸すだけ」と「余裕のユウちゃん」はけんもほろろ。しようがなく,逃走資金として三億円紙幣を一枚借りて(描かれた肖像画はヤマダユウだった…),スタスタ新橋駅舎に入った。
まっすぐ帰宅するとヤバいかもと考え,通勤経路の横須賀線ではなく東海道線に乗り込んだ。川崎駅で下車して,LAZONA 川崎にある丸善に入った。中公新書の新刊を適当に漁る。左方向 2 メートルくらいの場所で,老いた母親が車椅子の娘に芸能雑誌を開いて見せている。娘さんは人気グループ『嵐』のマツジュンのグラビアを幸せそうに視ていた。こっちまで幸せな気分になって,私は中公新書の書架に目を移す。ふと『マタグラのマリア』に目が止まる。マタグラ? マグダラじゃないのか?
と,そのとき,ねっとりとした液体が目の前を真っ赤にした。首筋に生温かい飛沫を感じ,振り返ると,刮目した若い女が岩波文庫の書架に凭れて座り込んでいた。斬り裂かれた頸動脈から血液を迸らせ,絶命していた。平積みの文庫本の上には血糊も鮮やかな檸檬がひとつ。その傍らに上品な身なりをした醜い中年の女が刃物を持って呆然と佇んでいた。岩波文庫は赤帯以外の本も動脈血の鮮紅色に染まっていた。返り血に汚れた中年女と目が合った。世界に静寂が訪れた。「ハ」と叫んで女は逃げ去った。場は騒然。
わけもわからぬうちに,気がつくと自宅の前にいた。私は血塗れになっていた。扉を開けたら玄関には直立不動の妻が —「どうしたの?」。「『おい,小池!』と間違えられて,処女と一発やったら,バージン・ブラッドをシコタマ浴びちまった…。コ,コユキのハイボールはサントリー角瓶じゃなく,トリスだった。『余裕のユウちゃん』から金を借りちゃいねぇ。丸善の檸檬をマグダラの処女のマタグラに突っ込んだりなんかしてねぇ」と,我知らず,言いわけを私ははじめていた。妻の瞋恚の形相。と,彼女はコンピュータ画像処理のモーフィングのように見る見る若返り,無言のまま台所から出刃包丁を握りしめて玄関に舞い戻って来た。
今朝,目が覚めると寒かった。私は少し風邪を引いてしまったようだ。色付の夢を見た。へんにリアルだったな。『荘子』に曰く「其の夢みるに方りては,其の夢なることを知らず,夢の中に又た其の夢を占い,覚めて後に其の夢なることを知る。且つ大覚ありて,而る後に此れ其の大夢なるを知る」(『荘子』内篇・斉物論篇・第二,岩波文庫,p. 81)。また,曰く「昔者,荘周,夢に胡蝶と為る。栩栩然として胡蝶なり。自ら喩みて志に適うか,周なることを知らざるなり」(同,p. 88-9)。
ぼっとしたまま会社に出た。昨夜,日本を代表するメーカー M 社顧客に納めたシステムがダウンし,子分に復旧処置をさせた。今朝はその対策会議を実施することになっていた。