映画『告白』

高校野球,読書ばかりにも飽いて,今日は川崎チネチッタに独り映画を観に行った。『告白』,2010 年,中島哲也監督作品。主演は松たか子,木村佳乃,岡田将生ほか。まずひとことだけ感想を述べると,観るに値する作品である。

先日読んだ少年犯罪ミステリー『天使のナイフ』と比べると,ある意味で対極的に被害者の論理を描いた作品である。どちらも加害者と被害者の双方の視点を対比させたフェアなアプローチであるが,少年犯罪の罪と罰,「更正」のあり方の帰結としては,『告白』は遥かに酷薄である。罪を犯した少年に復讐することこそが彼を「更正」させる最良の方法だとこの作品は主張しているからである。つまらない見方ではあるが,少年法厳罰化に賛同する向きは,『告白』のほうによりカタルシスを覚えると思う。その行き着くところは「関係者すべてが己の不幸をさらに加速させること」である。「爆発させて終わり」の安易さが少し不快であったし,それゆえにエンターテーメントとしての落としどころにもなっていた。

「告白」という形態で少年犯罪の加害者/被害者のそれぞれの視点から物語が語られる。それはその人の徹底的に自己中心的な論理の表明である。でも,人間はそうはいってもここまで自己中心的になれない。だからこそ犯罪の裁定が難しいのではないか。誰をも満足させえない結果になるのもそれゆえではないか。— と思う私が幸せなだけか。日本人の確信犯的絶対悪はそれ自体,マユツバに見えてしまう。絶対悪ならこれを誅して終わりじゃないか。

私はこのように作品の描く主人公の性格に現実性をあまり感じなかった以上,その「主張」らしきものも,フィクションとしてしか消化できなかった。「マザコン少年の犯罪」なんて,私は吹き出しておしまい。犯罪心理の型にハマり過ぎているんである。「なんだマザコンか」である。崖で足を滑らせたら,それあ奈落に落ちてもしようがない。そして,その崖が「マザコン」というのは付き過ぎじゃありませんか? 現実の悲劇は,歩道で足を滑らせたら死んじゃったってことではないだろうか?

それでも,面白かった。まず第一に,復讐の手口の陰険さが最高(おまけに松たか子がやってくれると来ている。ネタバレなのでこれ以上はやめ)。そして,狡くて卑怯で愚かな子供たちがよく描かれていた。このガキぶりの醜悪を支えているのが匿名メールや,インターネットの民主制である(ガキでも意見をバラまくことができる)ということもよく理解できる。ガキどもが AKB48 のテレビを観ているのには笑ってしまった。個人で目立ちたいくせに均質の徒党をなすそのざまが象徴的なのである。「殺す相手は誰でもよかった」との動機にある,そのじつただの集団主義の裏返しでしかない自己顕示欲(私はこれを「AKB 症候群」と呼びたい)が,哀れなくらいわかり易いように描かれていた。原作も読んでみたいと思った。
 

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チネチッタで映画の時間が来るまで,同じ建物内にある Tower Records で CD を漁った。Arcanto Quartett によるフランスの弦楽四重奏曲集を買った。Claude Debussy: Quatuor à cordes en sol mineur op.10; Henri Dutilleux: “Ainsi la nuit” pour quatuor à codes; Maurice Ravel: Quatuor à codes en Fa majeur; harmonia mundi s.a, HMC-902067. デュティーユの『夜はかくの如く』という作品をはじめて聴いた。なにか悪夢のようなものである。寝ながら聴くと,苦しめられるかも知れない。ラヴェルがよかった。
 
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府中街道沿いの,川崎市街地へ行く最寄りのバス停留所でバスを待っていると,ふと目の前の電信柱が傾いているのに気付いた。こんなんで大丈夫かな,倒れやしないか。と,その隣の電信柱に目をやると二本が支え合っている。古い町なのでこんなダイナミックな普請もあるんだと,へんに感心した。ヒマだとくだらないことが目に付いてしまう。このあたりは操業を止めた町工場がいくつもあって,ちょっと寂しい町並みである。
 

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