ある編集者の愚痴

知人 M は某出版社で俳句・短歌の編集を担当している。仕事の多くは自費出版である。彼女の仕事上の愚痴をよく聞かされる。今日も相手をした。

彼女が担当するある初老の女性俳人の本が出来上がった。それを著者に見せたところ,著者はページの余白が気に入らないと言う。ノドの余白が広すぎる云々。M は,トンボ入りのゲラを著者に見せて確認を取っているし,いまさらページのレイアウトにクレームをいただいても対応できない,と正論を著者に伝えた。ところが著者は,「トンボ付のゲラを見せられても仕上がりがどうなるのか素人の私にはわからない。そのとききちんと説明してもらっていないのだから,アンタが悪い。どうにかしなさい。トンボがどうのこうの言われても素人の私にわかるわけないじゃないの!」の一点張りらしい。トンボの何たるかを知らなくとも,自分の著書のサイズからそれが何を意図しているかは,よほどの間抜けでない限り,自ずと想像できるのではないだろうか。

「見積りの承諾を取ってから作業したんだろうね」と私は念を押す。「もちろんそうしたよ。その著者の人,出来上がってからグジグジ言う人らしいのよ。ご要求がなかったのでページ三句組みの一般的なレイアウトにしたんだけど,だいたい余白の取り方にそこまで拘るんなら,初期の段階で自分のイメージに近い本を見せるなりして,『こう組んでくれ』って言ってもらわないとわからないよねぇ」と M。どうも本当にこの著者はクレーマーのようである。

私の見立てでは,この著者はこれを理由に値切ろうとしている。見積りに合意しながら,その条件に定義されていない要求事項について仕事が終わったあとにケチを付けて来る奴。最低の客の典型である。非機能要件(仕様書,要求事項文書に明記されていない成果物の要件)はいくらでも掘り出すことができる。書籍の場合で言えば,フォントデザイン,ノンブルの微妙な位置,字間のつまり具合,等々。そして,いくらゲラ等で確認させても,それらについて出来上がったあとになって,「素人」を盾に出版社の非を突いて来る。見積りの段階で「もう少し安くしろ」という話であれば,本の素材品質や作業内容等の条件を調整することで合意に向けた企業努力が出来るが,仕事が終わったあとに値引きを要求されると,受託側はたまったものではない。「そのオバハン,ヤクザ以下だな。そういう後出しジャンケンをするのは女に多いんだ。そのつどそのつどはしとやかに抑えているくせに後戻りできないときになって不満を爆発させる。そんな奴とは徹底的に闘って,ビタ一文引いちゃダメだ。『そのようなご要求は承っておりません,いまさらお受けできません』を頑に通すんだ。水掛け論になるだろうけど,それを突き通す。そして心のなかでこうつぶやく — 『俳人(歌人)としてだけじゃなく,社会人としても三流以下だな』」と私はけしかけた。

M が言うには,ある程度名のある俳人・歌人はまずこんなくだらないケチを付けたりしないそうである。M の愚痴を聞いているといつも思う。なぜに素人(三流以下の)俳人・歌人は内容ではなくて本の見た目にばかり拘るのだろうかと。もちろん自費出版でそれなりの金が掛かっているので,己の完璧イメージを実現したい気持ちはよくわかる。でも,頭のなかのイメージはやはり頭のなかにしかないわけで,それが実現されないことについて,自分がその仕様を定義しなかったことを棚に上げて,すべて出版社のせいにしようとするのはいかがなものか。自分の頭のなかにしかないものが他人にも共有されていることを当然のように看做す知的甘えん坊である。難しい客はそういうのがほとんどらしいのである。「こうしてくれ」と要請しないで,「こうじゃない」と駄々をこねる。まるでガキである。もっぱら三流以下の(なのに自分では一流だと思っている)相手にそういう付き合いをさせられる M がホント不憫である。「バカは死ななきゃ治らないって割り切って,仕事に徹しよう!」と私は励ます(励ましになってねぇってか?)。

余暇に俳句・短歌を詠んでいる人について,私は結構な嗜みだと思う。でも一方で,M の愚痴を聞くにつけ,「素人」の見た目勝負のくだらなさに,素人俳句・短歌の「着替え人形」(残念ながら,誰がこの評言をなしたのか私は思い出せない)ぶりを嘲りたい気にもなってしまう。功なり名遂げたヒマ人たちのお上品な趣味ですこと。