薬丸岳『天使のナイフ』

薬丸岳のミステリー『天使のナイフ』は,2005 年第 51 回江戸川乱歩賞受賞作である。多分に漏れず面白かった。昨夜一晩で一気に読んでしまった。

少年犯罪という極めて重いテーマを扱っている。加害者少年・少女,被害者の双方の立場は当事者でないと理解できない闇があるはずである。世間一般の道徳意識・好奇心でこれに接することは,間違いなく何かを侵す,そういう不謹慎さを免れない。アンタッチャブルにしてデリケート。それでも,本作品は,事件当事者の心情や葛藤に想像力で果敢に分け入ろうとする。そして,加害者/被害者の双方の物語を想像力の良心において紡ぎ出す。

文学作品はフィクション=仮構であって,本質的に現実認識のなんらの代替にもなりえない。しかし厳しい現実に対して名前付けするような,思考のモデルを想像力で齎してくれることがある。主人公に語らせている次の台詞は,少年犯罪のみならず,あらゆる犯罪の加害/被害の二項対立について,ひとつの真面目な結論だと評してよいと思う:「... こう言いたかったんだ! 自分もあなたも,人生につけてしまった黒い染みは,自分では決して拭えないとな。[ ... ] それを拭ってくれるのは,自分が傷つけてしまった被害者やその家族だけなんだ。被害者が本当に赦してくれるまで償い続けるのが本当の更正なんだとな」(本書,p. 426)。

これ以上はネタバレになるのでやめ。この作品は重いテーマを扱っているけれども,一方で奔放なストーリー展開を宿命付けられたエンターテーメントである。この両立性において本書が成功しているかどうかはまた別問題である。とくに,弁護士の情熱的なセリフに私は素人臭さを感じ(現実のプロフェショナルな弁護士は法律「のみ」に照らして法解釈で相手を攻めるわけであって,情熱的信念・哲学なぞが混じるのは却ってウソ臭い),それが大団円の醍醐味を少々貶めてしまった感は否めない。

子供を育てる立場にあると,いつ我が子が犯罪に巻き込まれるかも知れない,という不安は片時も離れない。それは被害者になるだけでなく,加害者にもなりうるという想定である。少年犯罪が報じられる都度,ネットで「こんなガキは社会のゴミだ,駆除しろ」風のエセ正義感が蔓延するのには絶対に同調できない。かといって,過度な人権保護や加害者少年の不幸な環境・背景への同情にも与することはできない。それぞれの立場は抜差しならないものだと,子の親なら想像できるからである。ニュースなどで,少年犯罪を犯した子供たちについて「あんな素直ないい子がどうしてこんなことを」テキな談話が報じられたりする。これはマスコミが意外性を煽って面白がっているのではなく,多面的な事実のうちのひとつの真実なんだと私は思う。「どうしてあんないい子が」なのだ。我が子が犯罪に関ることになったらどう行動すべきか。もちろん,本書にその答えを求めることはできない。