丸山眞男

FIFA ワールドカップを楽しみながら,日本の組織的弱さ・心の弱さについていろいろ考えたりした。日本代表と世界の強者たちの試合に夢中になったこの一ヶ月間に,山本七平『日本はなぜ敗れるのか』(角川書店,2004 年),その元ネタになった小松真一『虜人日記』(筑摩書房,2004 年),鈴木邦男『右翼は言論の敵か』(筑摩書房,2009 年),猪野健治『やくざと日本人』(筑摩書房,1999 年)など,とりとめもなく読んだ。それらのなかでも,丸山眞男の著作がなによりも私の心に響くものだった。

私は高校生のころ,丸山眞男の『日本の思想』(岩波新書,1962 年)を読んだ。思想史において,日本の思想,とくに神道の宗教思想は,異文化の思想と相克することを通して発展するということなく,あらゆるものを雑居・吸収し,その結果,構造化されず,日本人の思惟基盤として蓄積されず,近代を迎えた。そのため,思想的基盤が弱く,雑居する思想的伝統がご都合主義的に「思い出さ」れる。そこでは,「軍国的全体主義の時代にも日本には民主主義があったじゃないか」ということになる。「思想」を構築されたフィクションとしてではなく現在する「モノ」として捉えるその心性は,フィクションであるからこその知的一貫性・主体的責任を担うのではなく,現実的な「モノ」の前に主体性を放棄してしまう(「こう信ずるがこれが現実だからしようがない」と投げ出す)結果となった。この思想的脆弱性こそが太平洋戦争に対する総無責任を生み出した。

丸山の論はおおまかにはそのようなものである。これはおそらく,西欧的思想伝統に決定的な敗北を認める,戦後自虐思想の嚆矢ではなかろうか。高校時代の丸山読書のおかげで,以来私は,日本人の「思想」というもの,「信念」というものの薄っぺらさ,弱さの原初的認識を植え付けられてしまったようである。太平洋戦争になぜ突入してしまったのか,どうしてこの戦争終結を閣議決定できずずるずると引きずって原爆投下,ソ連宣戦布告を招いたのか。日本人が自分の行動に対して無自覚かつ,現実に対し可能性にかけて働きかけて変化を齎すというよりもむしろすべてが既成事実化するのを待って(太平洋戦争の場合,天皇の「御聖断」— これは昭和天皇自身のおことばによればご自身のモラルに逆らった行動だったが,これによって日本は救われたのである),「現実」の前に責任をも放棄してしまう思想体質だからである(よって私なら「ツルの一声体質」とでも言おうか)。今回,岩波の『日本の思想』,平凡社ライブラリー『丸山眞男セレクション』で丸山眞男を再読し,多感な時期に受けた読書の影響というものを再発見した。改めてこの政治学者の論に接し,私は彼の考え方がいまだにアクティブな意義を失っていないと再認識したのである。

政治の結果責任を丸山は強く求めた。「よくがんばったからいい」という発想はここにはない。福沢諭吉を高く評価し,ある既成観念に応じた判断(福沢の言う「惑溺」)ではなく,具体的事案の状況に即してその都度善し悪しを評価し次の行動を決して行く動的な態度を主張した。思想や信念を固定した価値そのもの,「モノ」として捉え,政治をその思想・結果ではなく,意気込みや動機,精神論で議論しようとする人たちが,いまのこの国にはなんと多いことか。

「政治とカネ」— それで私たちが結果的に仕合わせになるならべつにいいじゃないか。「海兵隊は抑止力だからいてもらわないと困る」— 「海兵隊は抑止力」だなんてなぜ言えるのか。抑止力というなら北京の方向にミサイルを配備したほうが効果的じゃね? ミサイルは憲法違反だからできないって? なんで憲法違反なのか? それなら自衛隊はそもそも憲法違反じゃないか? なぜ憲法解釈に依らず最良の道を「作り出す」ことをしようとしないのか! 「普天間基地県内移設は党の思想と相容れないから政権離脱する」(社民党)—「原理・原則」は,基地どうのこうのという個別的事案ではなく,もっと別なところにあるべきではなかろうか? 「相容れな」くてもまさにそのときの状況により一時的に受け容れることが本当に目指す目的に叶うなら,それでもよいのではなかろうか? 日本人はこういうのを「ブレ」ていると称して軽蔑する。

たしかに,「思想」だとか「信念」だとかに対して「惑溺」しているのである。状況に応じて発言をした「宇宙人」鳩山さんが,このつまらない「ブレ」だけを捉えられ,理解されなかったのは当然である(ま,何かの圧力に屈して「米海兵隊の抑止力」云々で普天間問題から逃げた感は否めないけど)。こういう事態にバカバカしさしか覚えない私は,やはり丸山の影響を受けていると自覚してしまう。

しかしながら,いまの私は丸山の考えすべてに同意しているわけではない。「天皇制」(このコトバは共産主義者が使う用語で好きではない。本来「国体」というべきである)に対する生温い戦後処理に彼は厳しい批判を加えたが,私は「政治の結果責任」という意味では「天皇制」が残ったこと(「権力」と「権威」が分かれて存続したこと)に意義を認める。日本の思想が構造化されていないという丸山の批判についても,このグローバルな欧米一辺倒の価値観のなかでは可塑性あるフニャフニャ思想も逆に新しい可能性をもっていると信じている。ただその思想的基盤,原理・原則のなさこそは克服すべき中核にある,ということは間違いないと思う。丸山はどこかで「日本文化の雑種性」という加藤周一の捉え方について前向きに評価しようとする態度を表明していた。私は加藤の「雑種性」の考え方のほうがより現代的だと思っている。いろんな相反する価値観があり,それらが相互影響を与えつつ,暴力的に排他することなく,同居してゆくこと。これを認めることがいまいちばん大事な立場ではないだろうか。

それでも。丸山の思考様式には,これを乗り越えるべき凄い価値がある。どうしていまの日本には丸山眞男のような堅牢な政治思想家がいなくなったのだろうか。柄谷行人,鶴見俊輔がいるって? いるのは「ジャーナリスト」ばかりのようにみえる。へんなマンガ家が堂々と臆面もなく書いた,わかりやすい,ヘボな戦争論に,ネット「右翼」・2ちゃんねらー・Yahoo! コメンターたちが,これまたわかりやすく,ハマってくれているのを眺めていると,政治は動物園のように観て楽しむものになってしまった観がある。いま歴史が流行っていて「歴子」なるお姉ちゃんがわんさかいるらしい。そのうち今度は政治ブームが来て,「政子」たちが登場し,永田町が大賑わいするかも知れない。
 

この本は,1961 年初版以降,この 50 年で 100 万部以上売れたそうである。私が読んだのは 1978 年の第 31 刷である。このような本がそれだけ読まれたということは,ちゃんとした本が読まれなくなったと言われて久しいいま,日本もまだまだ捨てたものじゃないと思ってしまう。『「である」ことと「する」こと』にある,行動する思想の考え方や,「ササラ型」と「タコツボ型」という文化類型と思想構造の問題論は,いま読んでも新鮮である。

下にあげた『丸山眞男セレクション』にも『I 日本の思想』が収録されているけれども,岩波新書版は『セレクション』に含まれていない重要な論文も収録している。
 

これはいま古本で探すしかない。このなかの『追記および補註』に右翼(丸山は「無法者」と書いている)に対する面白い類型分析があったので,私がとくに鋭いと思った点をかいつまんで紹介すると — 「(1)一定の職業に持続的に従事する意思の欠如 [ ... ]。(2)ものへの没入よりも人間関係への関心。その意味で [ ... ] 専門家に向かない。[ ... ] (4)しかもその『仕事』の目的や意味よりも,その過程で惹起される紛争や波瀾それ自体に興奮と興味を感じる。(5)私生活と公生活の区別がない。とくに公的な [ ... ] 責任意識が欠け,その代りに(!)私的な,あるいは特定の人的な義務感(仁義)が異常に発達している。(6)規則的な労働により定期的な収入をうることへの無関心もしくは軽蔑。[ ... ] (7)非常もしくは最悪事態における思考様式やモラルが,ものごとを判断する日常的な規準になっている」(pp. 510-1)。

ここでいう「無法者」とは直接的には,いわゆる武闘派右翼やヤクザを指す。本書の歴史的背景,つまり 1940 〜 1960 年代くらいは,ヤクザ,右翼は軍部・自民党政権に間接的に雇われて,労組つぶしや政治デモつぶし,左翼運動家への脅迫・嫌がらせの主たる手先になっていた。いまの総会屋・街宣右翼みたいなものである(ただし,いまと違って当時の「無法者」は,刑法を無視した露骨な暴力を振るい,一方で警察はほとんどそれを見て見ぬふりをしていたのである)。国民生活が安定した 1960 年代中期以降,政府はヤクザをつぶして「正義の味方」をアピールするほうが権力維持に有効だと判断して方針を切替えた。東京オリンピック開催の体面もあった(こういう点で日本政府もいまの中国とそっくりだったのである)。警察は暴力団の大量検挙をはじめるようになった。権力は,暴力装置をさんざん使い,用がなくなったら体よく切り捨てたわけである(このあたり,猪野健治『やくざと日本人』(筑摩書房,1999 年)に詳しい。この本もめっぽう面白い)。

しかしながら,考えてみれば,いまのネット「右翼」も,これらの一部特性は顕著ではないか? (1), (6) は,むしろ仕事がなくて,独りネトウヨするしかないからか。(4) なんて「2ちゃんねる」そのものじゃないだろうか。(7) は,日本がつねに反日スパイに蹂躙されているという被害妄想がこれに該当してますね。自分の意に染まない人に対して,のべつ幕無しに「売国奴」,「朝鮮人」のレッテルを貼りたがるわけです。社会人はそのほとんどが常日頃,諜報なんかではなく「仕事」をしているということがわからないんですね。まさにこれこそネット「右翼」自身が「仕事」をしていない,労働を通じた社会とのコミュニケーションにおいて疎外されている証左になっている。じつはここに書かなかった「無法者」の特質に (8)「性生活の放縦」というのがある。ネット「右翼」にはおそらく見られない特徴であろう(独りで寂しいクソ真面目君だからだ)。でも,そもそもネット「右翼」に当てはまらないのは「無法者」という範疇そのものである。彼らは安全な市民生活を送っていて,ただ頭の中が新世紀エヴァンゲリオンなだけだからである。そういう意味では (5) 公私の区別がないというより,現実と妄想の区別がないというべきか。
 

これは一冊で丸山の重要な論文を収録している。