韓国さすが/参院選スタート/右翼

韓国が決勝トーナメント進出を決めた。素晴らしい。厳しいグループにあってよくぞ果たした。日本も続いてほしい。

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参院選がスタートした。今夜,日本が予選突破したら,民主党が勝利するだろう。逆に日本がデンマークに敗れ,前評判どおり予選敗退となったら,やっぱり民主党が勝利するだろう。

民主党・菅直人首相は,いま持ち出すと選挙に不利だと思われる消費増税を,敢えて争点にした。いいんじゃないんでしょうか。その前に民間にできることからさっさと公務員を撤退させてくれないものでしょうか。税収が少なくなって政策実行が難しい,あるいは借金を返さなくちゃ,というならば,まず一般企業と同じように無駄な構成員をリストラして組織をスリムにするところから始めるべきである。

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いま読んでいる本は右翼についてのものである。鈴木邦男『右翼は言論の敵か』(ちくま新書,2009 年)。私は「左翼」も「右翼」も嫌いである。パッパラパーと真面目の混淆が好きなのだ。でも,自分の胸に手を当ててよく考えてみると「心情右翼」だと自己認識している。日本は天皇陛下がいなければ,ただのアジアの小国だと私は思っているからである。中国の軍事力は確かに脅威で,米国をうまく使うなり自分で守るなりすべきだと思っている。一方で,中国も,韓国も日本以上の文明国だと思ってもいるのである。

ところで,考えてみれば「左翼」も,「右翼」も,いまやどこにもいないような気がしている。「ネット右翼」というコトバが定着しているけれども,ほんとうにその実体があるのかということにすら首を傾げてしまう。PC の前でホザくだけの「右翼」なんて名辞矛盾ではなかろうか。私はいま「右翼」とカッコ付きで記しているが,「ネット右翼」なんてさらにカッコを付けて「「右翼」」と呼びたい気がする。やっぱり本当に殺されるのではないかと思うくらいのスゴミがないと「右翼」とは呼びたくありません。いずれにせよ,いまは右も,左も,皆お行儀がよくなった。ヨイことである。昔は殴り合い,殺し合いをやったのに。その血走った人たちが学校を卒業したらバリバリの企業人になってしまったというのだから,金の力,世の中の圧力というものの凄さに呆れるというものである。

まあ,もとより私にとっては「左翼」も,「右翼」も,クソ真面目な学生が仕事を覚える前にそのクソ真面目さだけで「信念」に突っ走っている,ただそれだけのハタ迷惑な存在でしかなかった。親や世の中に寄生しているだけなのに,手を動かして仕事をし子供を育ててから偉そうなことを言ったらどうかね,と思う。仕事と子育ては,日常的継続の過酷さを正視し,地を這うようにそれに平静な顔つきで耐えることを強要する。それに晒されずにクソ真面目野郎が語る「信念」なぞ,嗤うべきである。そんな「信念」は薄っぺらで,無責任で,すぐに忘れられるだろう。だから「左翼」も「右翼」も,学校を卒業したら,この「信念」は「思い出」になってしまったのである。そんなヤツらを私は絶対「信用」しない。私のこのような考えはいまも昔もまったく変わらない。鈴木邦男のこの熱血右翼伝を読んでも,やはり変わらない。奇しくも本書は「左翼」も,「右翼」も,日常的継続の世界に対する視野の狭さという意味で同じ穴の狢であったという,右翼活動家だった者の立場からの証言である...,そう読んでしまった私は間違いなく「左翼」,「右翼」のいずれからも軽蔑されるべき「ノンポリ」生活者である。

著者は面白い話を本書で伝えている。いまや信じられないことだが,昔,オカモトのコンドームの CM にこんなのがあったそうである。三島由紀夫の『楯の会』と同じ制服を着た男たちが叫ぶ:「立て,立て,立て,立て,タテの会。使用感などさらになし」。三島由紀夫はいまでは右翼にとって神に等しい存在である。しかしながら,当時は,このパロディーに見られるとおり,パンピーどもからは思いっきり皮肉に,斜に眺められていたのである。コンドームとは傑作である。「使命感」を「使用感」に転じて大笑いである。これこそ生活人の視線である。三島由紀夫を作家としてこよなく尊敬しているのではあるが,残念ながら私は,オカモト工業の下品極まりないセンスのほうにこそいたく共感を覚える,パンピー日本人である。思想バカを諭そうとしてはならない。嗤ってやるのが一番である。