ラヴェルの室内歌曲『ステファヌ・マラルメの三つの詩』は私のもっとも愛するラヴェル作品のひとつである。弦楽四重奏,ピアノ,フルートとクラリネットによる音響が色彩感に充ちて官能的である。シェーンベルクの『月に憑かれたピエロ』,ストラヴィンスキイの『兵士の物語』と並んで,20 世紀のモダンな室内歌曲の最高傑作といってよい。
この作品の第 2 曲『徒な願ひ Placet futile』に,「私達を名付けてください Nommez nous...」なる詩句がある。マラルメ独特の難解さ,意味深長さがある。
私達を名付けてください......木莓の薰の高い笑ひ聲が,
慕ひ寄る人の懇願を喰ひちらし 恍惚として啼き喚き,
飼ひ馴らされた仔羊の群さながらになる あなた,
あるものを名付ける行為は,それを他ならぬものとして認識するとともに,己の支配下におく(「飼ひ馴らされた仔羊の群さながらに」する)ような意味をもつ。家に籠りっきりで親とも社会ともコミュニケーションを断絶し,独り趣味に埋没して社会性を喪失する行動様式は,齋藤環によって「ひきこもり」と名付けられることによってはじめて,これが悪魔の取り憑いたわけでも気が触れたわけでもなく,また個的現象でもない,社会的病理であると認識され,克服されるべき問題として「顔」をもちはじめたのである。
この曲を久しぶりに聴いて,「名付けること」の重みに考えが飛躍するとともに,千代崎秀雄著『聖書の名句・名言』(講談社現代新書,1987 年)の一節を思い出した。人間の根源的な情念にも関る,よい一節なので,少し長いけれども引用しておく。
《人が,生き物につける名は,みな,それが,その名となった》(創世記 二19)
一人の若い女性が医師をおとずれた。妊娠中絶の合意を得るために —。
医師は反対したかったが,彼女は説得の余地がないほど決定的に中絶を決意しており,そのことについて悩んだ形跡もない。そこで医師は話題を転じて,もしかりに彼女がその子を生んだ場合,どんな名前をつけようと思うかとたずねた。
気楽な話題として彼女はそれに応じ,男の子なら何,女の子なら何,と,あれこれ名を考えはじめたらしい。長い沈黙。その間,彼女の表情はあきらかに動揺を示した。ついに,"ありがとうございました。生みます" といった。
これは,パウル・トゥルニエ医師の著『なまえといのち』(小西・今枝訳 YMCA同盟出版部)に記される一挿話である。
禅は,この「名付けること」のもつ恐ろしさに向き合うことを,修行者に突きつける。この意味で,パウル・トゥルニエ医師の報告する感動的な逸話よりも,私にはさらに意味深長である。『無門関』第四十三則に首山竹箆(しゅざん・しっぺい)という公案がある:「無門は評して言う — 竹箆〔しっぺい — 禅道場の指導者が使う,竹でできた法具:私註〕と呼べば触れるし,竹箆と呼ばなければ背く。有語であることもできない,無語であることもできない。さあ言え,言え」(秋月龍珉『無門関を読む』講談社学術文庫,2002 年,47 頁)。
秋月龍珉によれば,「竹箆」を竹箆と呼ぶと「触れる」(ふれる,犯す,逆らう)というのは,「真如」(ありのまま)には,本来「名」はないと考えるからである。本来「名」のないものに「名」をつけてそれに執着して迷うのが衆生である。一方,「竹箆」は竹箆以外の何物でもなく,これを「金棒」などと呼ぶと「日常」は混乱する(「背く」)。じゃあどうすればいいのか。「さあ言え」と無門は詰め寄る。秋月は次のように解説している。
禅者〔無門:私註〕は衆生が「日常」の中に埋没して似而非なる「平安」に眠り込んでいるのを目覚ませようとして,「日常」の底にひそむ「危機」を見せるために,修行者を「極限状態」に追い込むのです。[ ... ] 我々一人一人が「即今なんと言ってもいけない」ところに立っていることに気づけというのです。[ ... ] こうした生死の「危機」に臨んで,避けず逃げずごまかさず,それと真っ向四つに取り組んで,この実存の大問題にぶつかってゆくのが禅の道なのです。
知識というものがこの「名」に通暁することでしかない,となれば,そんなものは「知」ではないということも,これは教えているように思う。私は悟ったとはとても言えないけれども,この公案の意味は深い。
ラヴェルの歌曲集はよい CD がなかなか出ない。私の愛聴しているのはエリー・アメリンクのソプラノによるエラート版だが,もはや廃盤である。次の全集に収録された『マラルメの三つの詩』もなかなかよい。
『詩集』を収録していて,現在,元気に生きている版は,専門家向け(というより — 専門家ならフランス語で読むはずなので — 好事家向け)の,いたく高価な筑摩の全集だけのようである。マラルメというよりマラルメの骸骨にしか出逢えないかも知れないが,この版へのリンクを以下にあげておく。これで「すべての書を読んだ」気分に浸っていただきたい。これ以外で手に入る版は手頃なものがなく,私の書架にある岩波文庫版もいまや中古で探すしかない。この詩人がいまだにインテリの所有物でしかなく,本当は日本人に愛されているわけでも,理解されているわけでもない証左であろう。
岩波文庫版が古書でまだ入手可能のようである。これは私の書架にあるものと同じ。鈴木信太郎のマラルメ詩の翻訳は,仏文学の専門家を前にして言うのは憚られるが — なにせ権威だからだ —,私は嫌いである。愚胝和尚は,何か質問を受けると,いつもただ一本指を立てるだけであった。
のちに,愚胝の寺に一人の小僧がいて,寺の外の人に,
「老師はどんな法を説くか」
と訊かれて,和尚のまねをして同じように指を立てた。愚胝は,これを聞くと,小僧を呼んでその指を切り落とした。小僧は痛さのあまり大声をあげて泣きながら,室外に出ようとした。愚胝はふたたび小僧を呼んだ。小僧は振り返った。そのとき今度は愚胝が指を立てた。小僧ははっと悟った。