サッカー W 杯日本代表が韓国に惨敗して,日本のサッカーファンに動揺が走っている。なかでも,日本サッカー界の至宝・中村俊輔選手が韓国戦で左足首の怪我を悪化させたことは,日本サポータを絶望させるに十分の衝撃があった。俊輔批判が噴出している。
中村俊選手の左足怪我が話題になってからじつはすでに二ヶ月近い。そこへこの 5 末に悪化させたとなると,あと半月で怪我を完治したうえさらに最高の状態に持って行くのはもはや無理だろう。本大会において,最高の状態で中村俊選手の黄金の左足を見られないのは残念でならない。中村俊選手にとっても悔しいことには違いない。けれども,怪我を押してまで彼を出場させるのはあり得ない判断だろう。
岡田監督はマネージャとして難しい決断を強いられていると思う。中村選手の回復が 30 日の英国戦に間に合わなければ,決然と入換えるべきではないだろうか。予備登録された選手には,小笠原,石川,香川など,可能性を秘めた素晴らしい選手がいる。判断が早ければそれだけ,交代要員が代表に溶け込む時間をより長くとることができる。また,こういう沈滞した雰囲気においては,ドラスティックな変化もある意味で必要だろう。
さて,岡田監督はどう判断するのだろうか。もちろん,中村選手が驚異的に回復し本大会で活躍する姿を見ることができるのが最高なんだけど。さんざん叩かれているだけに,ぜひとも実力を発揮して 4 年前の悔しさを晴らしてほしい。
※ Post Scriptum
敬愛する米原万里がこんなことを書いていた:「日本人は団体行動は得意だが,実は,チーム・プレイは苦手である。集団での踊りやダンス,オーケストラや吹奏楽の演奏などで手足の動きを揃えたり,音を揃えるのは巧い,しかし,誰もが同じ動きをしていてはチーム・プレイは成立しない。『ゲームの流れのなかで,あらかじめ予定していたこととは異なる動きをするのがチーム・プレイ』である。日本人は,チーム・プレイ=団体行動というふうに混同しがちだけれど」(米原万里『打ちのめされるようなすごい本』文春文庫,154 頁)。
農協的日本人気質そのものから変革しないと,サッカーも強くならない,ということをこの言は強烈に言い当てている(米原の言にもうひとつ私が付け加えるとすれば,日本人はチーム・プレイを「犠牲」とはき違えているところがある。日本人は軍隊に向いている — ゲリラによって一網打尽にされてしまう「昔の」軍隊に)。野球などチーム・プレイの必要性の薄いスポーツではそこそこ成果を出せても,サッカーのような常に流動するチーム・スポーツじゃ,右顧左眄の民族性ではどうしようもないようである。サッカーにおけるいま現在の不甲斐なさについて反省すべきは岡田監督,日本代表というより,国民性そのもの,われわれ自身ということか。こういう点を考えさせられる深いところが野球にないサッカーの面白さである。オシムさんが人生に譬えたのもよくわかる。