プーシキンの絵・セダコヴァの詩と散文

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今回のお買い物は, Т. Г. Цявловская «Рисунки Пушкина».(Т. ツャヴロフスカヤ『プーシキンの絵』) М.:«Искусство», 1987.; О. А. Седакова «Стихи» и «Проза». в 2-х томах.(О. セダコヴァ『詩集』と『散文集』二巻本) М:«Эн Эф Кью / Ту Принт», 2001.; «Юрий Тынянов. Писатель и ученый».(『作家・学者ユーリイ・トゥイニャーノフ』) М:«Молодая Гвардия», 1966.; А. А. Зализняк «Грамматический словарь русского языка».(А. ザリズニャク『ロシア語文法辞典』) Изд. 6-е, стер. М:«АСТ-ПРЕСС», 2009.

タチヤーナ・ツャヴロフスカヤの『プーシキンの絵』は,詩人プーシキンが詩文のマニュスクリプト余白などに描いた言わば落書き絵に関する研究書である。プーシキンは 18 世紀的教養人の教育ゆえに,絵の素養もあったのである。この本を眺めていて,興味深いことに気づいた。

プーシキンは女性の足フェチだったことがつとに知られており,『エヴゲーニイ・オネーギン』第一章 32--35 節に — 4 詩節も費やして —,女の足を歌った有名なくだりがある。この一連の詩の「足」は緑の草を歩む白い素足の変奏だと,私はなんの理由もなくごく自然に思い込んでいた。ルネサンス風の健康的な神話的エロスの伝統もあるのだろう。ところが,本書に掲載された「女の足」の落書きを見ると,乗馬用の靴と思しきものを履いている。この絵は直接『エヴゲーニイ・オネーギン』の詩節に関係付けられたものではないけれども,こうした「履物を付けた足」に詩人が「萌え」ていたとすると,私にはちょっと驚きなのであった。『PENTHOUSE』などの海外の成人向雑誌などで,靴だけを履いた女性のヌードをよく見かける。ああ,この趣味かと。西洋人は家屋のなかでも靴を履く習慣であるわけで,男と女が情欲に急き立てられて事に及ぶと,往々にして衣服ばかりを剥ぎ取って靴を履いたままとなる。これが一種独特のエロスの型になるというのも頷ける。プーシキンとの間に少し距離を感じた... でも,ちょっとした発見。
 

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足以外にも,プーシキンの好む「悪鬼(ベスィ)」の絵も印象的であった。
 

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オリガ・セダコヴァの二巻本の詩・散文集は,この知る人ぞ知る女流詩人の,おそらくははじめての著作集である。『野薔薇』,『トリスタンとイゾルデ』などの清らかな詩,紀行文,文学研究論文などの散文が集められている。かの高名なビザンティン文学研究者セルゲイ・アヴェリンツェフが序文を書いている。いま私は,プーシキンの『青銅の騎士』についての彼女の論文: «Медный Всадник»: композиция конфликта.(1991) 『«青銅の騎士»— 葛藤の構成』を読んでいるところである。
 

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ユーリイ・トゥイニャーノフの書籍は,彼の友人たちによる回想録とも言える文集である。ヴィクトル・シクロフスキイ,ボリス・エイヘンバウム,リディア・ギンズブルク,セルゲイ・エイゼンシテインといった錚々たる文芸学者,映画人たちの手記から成っている。1966 年,かつて禁止されていたロシア・フォルマリズムの遺産が「雪解け」のおかげで陽の目を見つつあったころの出版である。作家・文芸学者ユーリイ・トゥイニャーノフは私にとってはなによりもプーシキニストであって,ロシアの文学研究者としてもっとも尊敬するひとりである。1920 年代にすでに「構造」という概念で — структура ではなく конструкция という用語だったわけだけど — 文学作品を分析していた。しかも,実証主義的・文献学的アプローチで論を固めて行く紛う方なき「学者」なのであった。こういう点に,フランスの構造主義的文芸批評家(彼らは哲学者・文学者として名を残しても,「学者」ではない)とは一線を画するロシアの文芸学の特徴があり,60 年代以降のロートマン,イヴァノフに引き継がれる伝統がある。私はトゥイニャーノフという人に,その業績のみならず人間として興味をもっている。革命前後の大いなる文化興隆の一体現のように思っている。

アンドレイ・ザリズニャクの『ロシア語文法辞典』(2009 年第 6 版,初版 1977 年)は,ロシア語語形変化パターン辞典と言ったほうが誤解が少ない。本書は,コンピュータでロシア語を解析しようとする計算機科学者にとっても重要な文献のひとつになっており,ロシア語形態素解析ソフトウェアはほぼ間違いなく本書の語形変化パターンの恩恵を受けて開発されているのである。そういうわけで私も最新版を手元に一冊。