捕鯨問題,差別教師逮捕,中国「反日」の出色分析

読売のネットニュース『豪外相『調査捕鯨やめないと国際司法裁に提訴』』を見た。個人的には,面白い,提訴してみろ,この独善オージー野郎! というところである。オーストラリアの現政権は日本の調査捕鯨を国際提訴すると公約に謳っているそうである。だから,その線から自国民にちょっとおもねっている程度であって,もともとそんな気はさらさらないと思う。これをやめさせようなんて,あまり真面目に受け取らなくてもよいのではないか。

しかし。シー・シェパード問題で日本国民は怒っているのだ! 相手がオーストラリア政府だったら日本は喧嘩してもよい。日本人は右も左も,米国や中国に言いたいことを言えない政府に対し,いい加減業を煮やしている。支持率も下降しているところだし,そろそろスタンドプレイをしてみては? 内憂を外患で逸らすのはポピュリズム政治の鉄則。でも,米国や中国,ロシアは喧嘩が強いのでダメですよ。喧嘩の極意は勝てる相手とだけすること。

冗談はさておき,思うに,日本政府は捕鯨問題について,「日本人にとって大事な食べ物なんだ」と文化的視点でもう少し主張してもよいのではないか。そのためにこそ生態環境を尊重する。「鯨類捕獲調査」なんてはぐらかしをするから,生真面目なピューリタン達に嫌われるのではないだろうか。ああ,鯨の刺身を生姜醤油でまた食いたい。ぷりぷりの立田揚げを食いたい。オーストラリア政府に日本の食文化を否定されてたまるか。私のホンネはこの一点なんだけど。

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もうひとつ,読売のネットニュース『生徒の父に出身中傷の手紙,高校教諭を逮捕』。この先生が実際にどのような「手紙」を送り,どの程度「部落差別」の偏見に取り憑かれていたのか — よくわからない。出自で人を差別するなど許せない行為であるが,「逮捕」されるほどの内容なのだろうか。「これからXX幼稚園に行って」なんとかなどと「2ちゃんねる」などに書き込む輩が逮捕されるのは,ネットでの面白半分であるにせよ「脅迫」行為なのだから当然である。それに対し,この先生の逮捕はどうも私には納得できない。

逮捕の容疑は「市教委に同9月〜今年1月,二十数回の対策会議を開かせるなど業務を妨害した疑い」,つまり偽計業務妨害ということらしい。実際の問題と逮捕の理由が違うなんて,背筋が寒くなる。本来なら,警察ではなく教職員・地元市民が良識に基づいてこの先生を叩くべきではなかろうか。PTA 総会や生徒会集会,教職員組合会合などで議論して彼を吊るし上げるのだ。それで彼が考えを改め「生徒の父」に謝罪するなら,それでよいように思うのだが。「前科者」にするのはちょっと可哀相じゃないか。

なんでも警察にお願いする社会。そのうち,ピアノ練習をしていたら,警察がやって来て「騒音による業務妨害で逮捕する」と言われるような時代が来るかも知れない。ウソでしょ。

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麻生晴一郎著『反日,暴動,バブル』(光文社新書 421,2009 年刊)を読んだ。広大で複雑な中国という大国に果敢に分け入り,現代中国のある姿を描いたノンフィクションとしてとても面白かった。「假的(ジャーダ)」(ウソだー)という若者のことばを象徴的に捉えたところも秀逸だと思った。啓蒙された。

マスコミの中国報道が極端に偏っているなか,人権問題,食品問題,パクリ問題,さらにサッカーアジア杯・靖国問題での反日行動で,「中国人全体」に対する不快感で苛立っている日本人は多いのではないだろうか。小泉首相靖国参拝に端を発した「反日デモ」に対する本書の分析は,私には衝撃的であった。麻生によれば,それは中国政府に煽られたわけでも,日本の軍国主義に対する憎しみに駆られたわけでもなく,とにかく「政治的デモ」を起こしたいという若者の欲求の発露にほかならない。その証拠に,参加した若者は多く日本そのものにはなんの政治的反感を抱いているわけでもなく,1999 年の反米デモに比べると,デモの規模も,参加者の年齢構成もその怒りの様子も,限定的だったという。そう言われてみれば,確かに「愛国無罪」などというデモ参加者のことばも,目が日本よりもむしろ政府・警察権力に向いていたのだと理解できる。

マスコミ偏向報道やネット右翼の反中記事に疑問を持っている人は,ぜひ本書をお読みになるとよい。中国にも様々な人々がいること — 当たり前のことなのに日本では中国はそう思われていない —,日本人が中国人を一面的にしか見ていないことがよくわかる。この本の著者は,生身の中国人と向き合い,彼らの内在的論理を理解した上で,中国という現象を捉えようとする。「東アジア共同圏のような政府主導の大構想や,日中友好をいかに成し遂げるかといった壮大なテーマに比べると,それ [ 小数との絆に立って日中関係の世論に働きかけ,別の絆との連帯を探ること:私註 ] は確かに卑小であるが,壮大なテーマは卑小な一つ一つを包括するのではなく,ともすれば壮大であるがゆえに卑小な一つ一つにすらなりえない」(同書 p. 259)— なんと誠実な人なんだろうと心底私はこの著者に敬意を覚えた。