つぶやきの時代

先日,とある大学の先生とメールのやりとりをした。misima について丁寧な文面でお礼をいただき,私は嬉しかった。彼は「最近の大学生はまったく本を読まない」とこぼしていた。だから旧字・旧仮名遣いの文章で少しは学生の関心を惹きたい,と。「だとしたら,そんなバカ学生は旧字・旧仮名遣いという見た目にしか目を止めませんよ」などといった冷や水は言えなかった。教育者としての先生の真面目な工夫に私は感心したからである。

私は会社員なので,新入社員の知力には注意を払っている。学生の読書量については昔と比べてあんまり変わらないのではと思っていた。というか,同僚は皆,理科である。その学生時代の読書傾向にも偏りがある。そもそも,一般の学生の傾向を新入社員から推し測るには無理がある。同僚達は,本の話題はコンピュータ関連図書ばかりで,しかも強烈な飛ばし読みをする。理科の人は結論の書いてあるところを探して読む習性があり,しかも図面やグラフ,数式だけで論のだいたいを理解する能力を備えていて,文系の私は驚かされる。知識の習得を特殊なパターン認識能力でもって行っていると,私などには見受けられる。つまり「読む行為」は二次的のようなのだ。とはいえ,この行為だって,図面や数式と文章とを相互作用させて理解を確実なものにしているわけで,やはり活字のトレース要素は無視できない。

「まったく〜ない」という表現は主観の幅がじつに広い。私はわが新入社員の印象からしても先生のボヤキがピンと来なかった。だけど,うちのガキどもの活字ギライをみると,最近の学生は文字通り,ホントに,纏まった文章をまったく読まないのではないかと心配になる。「本を読まない・読めないヤツが大学なんて行くんじゃねえ」と私は我が子を叱り飛ばしている。子供達は,携帯メールでブツブツ断片的なことばを送り合い,「空気を読み」合っている。そして,ふとした文言で根拠のないキレ方をする。「空気」に侵されたのである。まったく悪意が「読み取れない」のに。ことばの論理にいい加減なゆえに「空気」を読もうとして勝手に気分を左右する。このように,携帯メールのこの時代,纏まった文章で論理的に意思疎通を図るようなコミュニケーション,思想の伝達は,いまの若い人には望めなくなってしまったのだろうか。「携帯をもったサル」というような表現をどこかで目にしたが,携帯電話が低能児養成ツールになってしまっている現実を認めざるを得ない。義務教育にある子供にはその所持を禁止すべきだと私は真面目に思う。

その一方で,子供達は,人が何を言っているかという論理ではなく,視覚的要素で人を分類する癖がある。「うちのクラブのXX先輩,このタレントに似ている」云々。人物評は「〜に似ている」しか思いつかないらしいのだ。そういうとき,私は「だからなんだ。人を見た目で極め付けるな」と叱る。「極め付けてるわけじゃないよ」—「『似ている』と表現すること自体,外見に薄っぺらい価値観を貼付けていることに,お前は自分で気づいていないだけだ。見た目で判断するなら,少なくとも『あの目つきは他人を軽んじるタイプだ』くらいの観察がほしいね」。でも,どうもこの傾向は,近頃の若者全般に及ぶような気がしてならない。ネットをうろついていても,「戸田恵梨香似の女」といった,人の素描のじつに貧しい舌足らずの表現にぶち当たらない日はない。

何かの論理ではなく視覚的印象で軽率に人物を類型化する傾向は,思うに,ことばの論理に鍛えられていない証拠である。もとより,ことばの論理と見た目判断とは直線的に結びつくはずはなく,私の意見には少し飛躍があるだろう。それでも,ことばは行為や事物の,視覚に依存しない本質を指向する発言者の論理を表す。ことばを尊重する者は,視覚的印象よりもことばで示しうる特性・内容(「〜に似ている」などという包括的印象ではなく「〜と言っている,〜を身につけている」等々の具体的属性)に,より判断の重点をおくものだと私は考えている。見た目で判断する者がことばに鍛えられていないというのも,ここにその理由がある。逆もまた真なりだと思っている。

Web で伝えたいことをきちんと書いても,おそらく 3 行以上のパラグラフになると,もう読まれないのではないか。Twitter というのが流行っているそうである。「つぶやき」くらいの量でないと,もはや読んでもらえない。若者は「つぶやき」を見て「空気を読」み,それでパソコンの前で勝手にキレている。そういう時代だということか。