ロラン・バルト『表徴の帝国』

フランスの批評家・ロラン・バルトが日本文化をめぐって著した『表徴の帝国』(ちくま学芸文庫版。原典は 1970 年初版)を読了。これは日本料理,パチンコ,生花,俳句,文楽,都市,日本建築,包装,書,顔,全学連,などなど,日本的現象について広範に採り上げてしるしているわけだけど,日本文化論というよりも,日本で得たさまざまな見聞によって彼のいわゆる「表現体(エクリチュール)」概念の例題を語っている,と考えたほうがよさそうである。

本書はさっと読んだだけではわかりにくい屈折した喩えに満ちている。いつものスピードで読み進むレベルでは,本書のおそらく七割は私の知力を越えるもので,私にはよく理解できなかった。何回か,丹念に読まないとダメである。また,それに値する書物である(それで報われる翻訳かどうかは知らない)。それでも,生花,文楽,俳句の素描には,日本人自らがうまく説明できない日本文化の特徴を魅惑的な求心力をもって言表わしていると思った。バルトは日本文化のエクリチュールの特徴を,「意味の廃絶」,「言葉の無化」,「悟り=認識と主体を激動させる強烈な地震」と要約している。感銘を受けたくだりを,少し長いが,いくつか引用したい。味わい深い指摘である。引用中私が下線を施した部分は,なんと美しい表現だろうか。

[ ... ] 日本の花束,その構成の象徴の意図が,日本案内書や《生け花》芸術論書にどう描かれているにせよ,この日本の花束のなかに生みだされているのは,大気の循環なのである。[ ... ] 西洋人なら,豊饒だけが自然らしさを証しうる,とでもいわんばかりに,花と葉と枝を自然から分離する。だが,《生け花》にあっては,花と葉と枝を《稀薄化》の理念にしたがって繊細に位置づける。日本の花束は空間(ヴォリューム)をもつ。
ロラン・バルト『表徴の帝国』宗左近訳,ちくま学芸文庫,1996 年,pp. 71-2.
[ 文楽の ] 主遣いの大夫は,頭になにもかぶっていない。すべすべした,むきだしのままのその顔は,[ ... ] 客から読まれるようにと,そこにある。だが,[ ... ] それは読解可能なものはなにもないということ,なのである。人はここにふたたび,意味の廃絶を見いだす。[ ... ] 西欧人にあっては,意味を追いつめるということは,意味をかくすことか,あるいは意味を逆転することか,であって,決して意味を空無化することではない [ ... ]。《文楽》との対比において,演劇の源泉はその空無のすがたをさらけだす。《文楽》の舞台から追放されているもの,それはヒステリー,つまり,演劇そのものである。
同書,pp. 96-7.
[ ... ] 主体と神のない形而上学にのっとってつくられる俳句が対応するものは,仏教の「無」,禅の「悟り」であって,その無も悟りも,神がその場に啓示されることでは決してなく,実体としてではなく,偶発事として事物を把握する働き,冒険 [ ... ] の輝きのなさ [ ... ] に冒された言語のこれまでの外縁を持つ主体を打ちやぶること,すなわち,《事実を前にしての覚醒》にほかならない。
同書,p. 123.

それにしてもフランスを代表とする現代のヨーロッパ的知性は「無」,「否定」という概念が好きである。「私の目指すものは〜でも,〜でもない何か」という発想が大好きなのである。それは西欧の反省でもあると私は思う。

カールハインツ・シュトックハウゼン(1928 年生まれ)の証言は奇妙にないないづくしである。以下に引用するけれども,こんな短いスペースにこれほどないを羅列した文章もないだろう。
そんなわけで再現部もないし,変奏もない。また展開部もないのである。「正式な手続き」の前提となるすべてのもの — くり返され,変奏され,展開され,対照され,昇華さるべきテーマとモティーフ …... がすべてない,最初の純粋な点描主義的作品を作曲したときいらい棄ててしまったのだ。
ドナルド・ミッチェル『現代音楽の言葉』工藤政司訳,音楽之友社,1976 年,pp. 118-9(下線部は傍点).
 
表徴の帝国 (ちくま学芸文庫)
ロラン バルト著・宗左近訳
筑摩書房