ギャル文化

うちの中学三年になる娘は『ポップティーン』などのギャル雑誌が大好きである。「ギャル」というのは「流行には敏感な(ちょっとおつむの弱い)娘さん」のことではなく,最近ではもう少し限定的に用いるようである。つまり,髪を「盛」ったように飾りつけ,ツケマ(付睫毛)をしたちょっとケバイ女の子のことである。「くみっきぃ,ちょー盛れてる」と浜崎あゆみ風の鼻にかかったしわがれ甘え声で言う。オヤジ・私は呆れるばかりである。私の趣味に合わないから。でも,まあ許せる。私の趣味に合わないだけだから。そういうスタイルがあってもよい。

娘の話では,先日『めざましテレビ』で外国人ギャルが採り上げられ,そのなかでフランス人ギャルがとくに多かったらしい。アニメ・マンガの受容もフランスが過激でもあり,日本のギャル文化に捕まるのもフランス人が多いということか。フランス人は個人主義が徹底していて,好きになったものはそれを誰がなんと言おうと貫いて憚らない潔さがある(そういう意味で,「皆がやってるから」式日本的女子高校生の集団的軽薄さとは相容れない喜悲劇を,私はこれらミニョン・ギャルたちの行く末に想像してしまう)。

娘の学校のとある友人宅は外国人留学生のホームステイを受入れている。いまポルトガルから来た女子高校生が滞在しているというので,娘たちは好奇心で会いに行ったらしい。なんとその子も他ならぬ「ギャル」であって,日本の「ジョシコーセー」スタイルを謳歌していたらしい。自己紹介を頼んだところ —「え? 自己紹介? えー,なーんかちょー恥ずぃんだけど!」とそのアンジェラちゃんだか,ガブリエラちゃんは,日本人の女子高校生とまったく変わりない抑揚,発音でもって流暢なタメ口をききまくって,恥ずかしがったそうである。

このようにいまや日本は海外の若者(極々一部ではあろうけれども)にとって神秘的でも何でもなく,心から共感できるスタイルを持つ国になったようである。私などからすれば,このポルトガルの娘さんももう少し「まともな日本語」を覚えて帰国してほしいと願わないわけではない。だけど,娘の伝える「ちょー流暢な」日本語だって「パロール」に他ならず,別に「正しい,礼節ある」日本語でなくても日本のナマの姿を彼女は歓喜をもって吸収しているようである。そう思うと,微笑ましい。少なくとも,武士道,禅,生花,能,などの,日本人の一般的生活からかけ離れた「高尚な」芸術・哲学のみに関心を向ける海外のエキゾチスム愛好文化人の話題なんかよりも,よっぽど日本が海外に受入れられていることを実感するのである。

それにしても,「難しい」とされる日本語の習得において,こういう十代の若者たちがアニメやギャル文化を通して日本人と変わりない言語マナーを早々に身につける姿を知ると,外国語の習得にはその国の生活・文化スタイルとそれに付随するオーラルな言語所作への共感がなにものにも優るということが改めてわかる。「秋葉いつき」なるペンネームをもつロシア人アキバおたく・ジェーニャ嬢(いつきたん〔註:「いつ来たん?」ではない。言うまでもなく「いつきさん」のオタ訛り〕)も,日本アニメの声優に憧れて来日し,瞬く間に日本語を我が物とした。おそらく彼女は日本語の文字,ことばの意味などよりも先に,愛するアニメ・キャラクタの声の所作を寸分違わずコピーしようとしたに違いない。