井上陽水の時代

井上陽水は私の好きなアーティストのひとり。1972 年にデビューし,1973 年『氷の世界』がヒットして有名になった。思い出す。小学校 6 年のころ『心もよう』を耳にして,その歌詞にあるように「青い便箋」のようなうら悲しい歌に惹かれた。

学生運動の熱気が去って孤独に打ち拉がれた若者が世界に悪意を抱きつつ自分の弱さに苛立つ時代だったと思う。弱さは安易な集団的暴力と結びつくことがある。その当時,浅間山荘事件,三菱重工爆破事件など不穏なテロが頻発していたのである。陽水はそんな 1970 年代の荒んだ世代の敗北者精神を代表していたと私は勝手に思っている。

テレビでは我が国の将来の問題を
誰かが深刻な顔をしてしゃべっている
だけども問題は今日の雨 傘がない
井上陽水『傘がない』

1981 年,北海道・札幌にある大学に入ったころ,『ジェラシー』がヒットした。「ワンピースを重ね着する君の心は ...」というような歌詞が,陽水らしいあの暗いわからなさを引き継いでいた。この曲を聞くと,その後国文学を専攻した金沢生まれの友人 M を思い出す。いつも坊主頭にしていて,ちょっと偏執狂的なところがあった。深夜に私の下宿をぶらっと訪ねて来ては「藤村の詩を読むと泣いてしまうんや」と金沢訛りで独言しながら,大真面目な顔で畳に座っていたものである。そしてコーヒーを飲み,クラシックレコードを聴く。そのとき,私の聞いたこともない 19 世紀ドイツのビーダーマイヤー作家の書いた作品の,M による翻訳をよく読ませられた。迷惑この上なかったが,読んで腐したり褒めたりしてやったものだ。そのころの私はビーダーマイヤー時代のドイツ小説は日本の私小説と同様つまらないものと誤解していた。かと思うと,M は「裸の女二人が温泉に入るテレビ番組,あれ好きなんや」という一面も持ち合わせていた。私はこの深夜番組を見せてもらいに,よく同じ下宿の友人部屋に行った。私も大好きだったのだ。M はこういうところでへんに気が合う友であった。ドイツ人のように冗談を解さずまったく笑わない彼は,よく衿付シャツを重ね着していたのだ。彼は『ジェラシー』の「ワンピースを重ね着する」女と同様に「不思議な世界を彷徨い歩いていた」のだと私はいまでも思う。

もうひとり,ある後輩の T は,露文研究室で学生同士話をしていると,ふといきなりギターを手に取って — そのころは誰のものかも知れないアコースティック・ギターがどの研究室にも転がっていたのである —「甘いくちづけ ... 遠い思い出 ...」(『いっそ セレナーデ』)と朗々と歌い出すことがよくあった。ドストエフスキイに身も心も捧げた T の歌う陽水には凄みがあった。こいつ,女にもてたのだ。いい男だった。そのころは,このようにギターで井上陽水や河島英五の弾き語りをする者が多かった。

もうひとつ。農作業の手伝いをしたりその農家の子供たちと遊んだりして,一週間ほど十勝で過ごしたことがある。私を世話してくれた農家には,美しい双子の少女がいた。そのとき一緒に行った同級生 M は,三浪で大学に入った,風来坊のような男だった。彼は,宿泊施設(町の公会所みたいな掘建て小屋であった)で農家の子供たちとトランプゲームをしたあとで,ギター片手に『心もよう』を歌った。双子の少女はギターの弾き語りをはじめて生で耳にしたようで,神妙な面持ちをしていた。「もう一回お願い」としきりにせがんだ。

私の学生時代の思い出のなかでは,このように陽水の曲が流れていることが少なくない。井上陽水について語ることは感情のお里が丸出しになるような恥ずかしさがある。しかし,1970 年代の残骸のような陽水的若者たちが暗い生き方をする(「ネクラ」と言われた)一方で,1980 年代は脇目も振らずバカ明るくてお金をもっている者たち(「ネアカ」と言われた)がわが物顔になった時代である。皆が一律坊主にしてひとつの目標に向かって努力する高校野球のような集団的営みが,鼻で嗤われる時代になったのである。努力,真面目はダサイものとなった。貧乏は恥となった。この「ネアカ」たちに圧倒的に支持されたのがサザンオールスターズである。ご存知のとおり,サザンの桑田圭祐はいまだにヒットを飛ばし,要するに JPOP の「勝ち組」であり,つまりは 1980 年代以降の日本人の軽薄短小趣味をある意味で決定づけたともいえる。

私はいまだにサザンより陽水を遥かに高く買っている(桑田佳祐も嫌いではないんだけど,どうもあの軽薄さに我慢がならない)。あのサザンの時代・80 年代にこそいまこの現代の病巣があるとさえ思っている。ゆえに,私はいわゆる「負け組」である。

 
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井上陽水
フォーライフ ミュージックエンタテイメント (1999-07-28)