蓮實重彦『反=日本語論』

蓮實重彦著『反=日本語論』(ちくま学芸文庫, 2009 年, 1977 年初版)を読んだ。もって廻ったような文体に少々辟易しながらも,読み進むにつれ,制約から自由たろうとするこの著者の思考に惹き付けられて行った。

主旨は次のようなものと読めた。

「言語の一般性」と「文法の規則性」という普遍への指向をもつ言語概念は,フランス古典主義の反映に過ぎず,じつは極めて特殊な,つまり歴史的なものである。西欧の言語学の基盤には音声中心主義があり,文字表記はそれを写す二義的位置しか占めていない。日本語は漢字・仮名という文字を持ち,文字による言語認識ともいえる実効性を有し,必ずしも西欧的言語概念で仕切れない場合がある。

しかし一方で,こうした「音声」,「文字」,「意味」,「表記」が正書法,文法などの原理によって「制度化」されてあるということ。そこには,近代の言語の暴力性(方言に対する隠然とした揶揄,間違った綴りへの嘲笑と社会的・階級的優越感,占領国による言語の強制)が漲っているという観察。言語学という「学」もその「制度性」から自由ではないという指摘。制度としての言語に囚われた言語学,言語論者への批判。そういう「制度」に囚われない言語生活の諸表情への愛情。

こうした言説を,己の見聞と,もっぱら身近な家族の言語生活とに対する観察から著者は導き出す。

「言語という制度」。なのに,日本語論者もまたそれを自覚することなく,西欧的観念に支配された言語アプローチに囚われてしまっている,と著者は批判する。「反=日本語論」の「反」はそこに由来する。「フランス語は明晰である」とか「日本語は美しい」とか「最近の日本語は乱れていて正すべきである」とか,そういう評価は「制度化」されたフィクションに幻惑されたものでしかないと言うのである。言語について語る場合には,それを自覚しそこから解放されそれを克服した地点に立たないと,目の前の言語の — 制度化されていない — 豊かなあり方,本質には至らないはずだと著者は言うのである。

私にとって極めて示唆的であった。「示唆」しかされなかったのが不満ではあるが。鋭い批判分析をなす一方,どうあるべきかのポジティブな理論が帰納されない点が — 極めて困難な仕事であるのは認めますが — 本書に対する私の不満である。それが目的ではないと言われればそれまでであるが。「それは『正しく美しい日本語』といった抽象的虚構を追い求める従来の『日本語論』に対して,根源的な異議申し立てを行うこと」(カバー)と要約している本書の編集者は優秀である。「異議申し立て」が本書のエッセンスなのだから)。

水村美苗『日本語が亡びるとき』を読み(かつてその書評をここに記した),そのとき「日本語を保守する国民的努力がなければ日本語が亡びる」との水村の主張に感じた「胡散臭さ」のよって来る源を,私は蓮實に説明してもらえたように思う。萩野貞樹『旧かなづかひで書く日本語』のような「歴史的仮名遣い」原理主義者に認められる「表記」の絶対化を「制度としての言語」に無自覚な独善として私は理解した。そういう眼で見ると,萩野のマナー — 敗戦によって文化的に押し付けを受けたという一種独特の被害者意識と,そこから来る攻撃的性格(他者攻撃しないではおれない,敗者に特有の性質)と,自己の主張を学問的装いでもって正当化したがる衒学的身振り(「論理的・合理的」言語への執着)— がいよいよ無惨である。水村や萩野など示威的に「国語を愛する」者たちに対する私の違和感は,言語の制度=虚構を他人に押し付ける者たちの「帝国主義的言語観」の横暴ゆえなのだと。

* * *

ところで,私は蓮實重彦の学者随筆風評論の「文体」が嫌いである。

なにより,凝りに凝ったあの長大な書き出し。外国語の文法で謂うところの関係節・譲歩節が錯綜し,しかも論の主旨とは無関係な情報に満ちている。こういうのを「気取り」というのである。

第二に,もって廻った構成。具体・経験を詳細に語り,言いたいことを意図的に伏せるように叙述しているのかと思えば,その流れから読み手が想定する命題を否定し煙に巻いた挙句に,さり気なく要点をしるす。随筆としては巧みな表現で読ませるが評論としては究極において何が主張したいのか晦渋で間怠っこしい。あたかも,奥床しい本質の周りをぐるぐる廻ってぶつぶつ独言(本人以外には理解困難な言語)を呟いている不平紳士を眺める(対話するのではなく眺める)ような気分なのである。

今日では誰もが『パンセ』と呼ばれる一冊の書物として知っているキリスト教弁証論を書いた十七世紀フランスの思想家ブレーズ・パスカル,もっとも,書いたといっても,彼はその論証体系の構造を明示することなく,未完の草稿を幾綴りもの紙片のまま残して三十九歳の若さで死ななければならなかったのだが,そのことによってかえって,天才と夭折との神話的結合ぶりを正当化しているかにみえるパスカルは,姉ジルベルトの回想によると,すでに幼少期から,「神童」にふさわしい孤独にして特権的な視線によって,世界の諸々の相貌を鋭く解読していたらしい。
蓮實重彦『反=日本語論』ちくま学芸文庫, 2009 年, p. 9(下線部は原典傍点).

『パスカルにさからって』のこの長大な書き出しの一文は,そのあとのコンテクストに照らしても,「姉の証言によればパスカルは幼少期から天才的に世界を解読していた」以上の機能を有していない。なのに何故,このようにあっちこっちに言を撒き散らさずにおかないのか。これが「命題」(真か否か)ではなく「表現」,「文学」(美しい・カッコいい・正しいか否か)を指向するものだからである。ことばに芝居をさせている。これは蓮實の文体に特徴的である。私の性格なのか,不幸な国語教育ゆえなのか,残念ながら,私はここに「テクストの快楽」などは感じない。「論文」などでは絶対に真似をしてはならないマナーである。

「論」は言語がフラットであるべきだと私は思う。なんというのか,無味無臭を指向すべきということ。凝った「表現への指向」があると,ことばに身振りをさせてしまい,煩くてしようがないと私は感じてしまうのである。

譬えていえば何と言おうか。「鞄」とは何たるかを説明してくれるのだが,そのために指差された鞄の説明用実物が凝りに凝った装飾の施されたエルメスのブランド品であったりすると,これ幾らするんだろうかとか,この人お洒落だなあとか,そんなことばかり植え付けられてしまい,鞄の本質がどこかへ飛んでしまうような,譬えればそういうことである。

そう,ここで起こっているのは「内容」と「形式」のすり替え・逆転である。鞄の「内容」を説明しているように見えるけれども,エルメス(鞄を説明するための「表現」)はその鞄を説明する「形式」のはずが,エルメスが使われることによってそれ自体が意味を持ちはじめ,鞄の本質=「内容」が逆にその表現のための「形式」にとって代わられてしまうのである。

話が逸れるけれども,「正字正仮名」(※)による文章もまさにこれと同じ構造に嵌る。表記そのものが「文体」的意義を帯びて「形式」が「内容」としてでしゃばりはじめるのである。なのに,書いている人がそれをうすうす知りつつ —「正字正仮名」は「カッコいい」と自認しているではないか — ニュートラルな「正しい」文章を書いているつもりになっている。「文体」というものに対し無感覚の「国語を愛する」らしい者たち。「滑稽」とはこういう所作を指すのである。彼らは「正字正仮名」を用いて何かを語るのではない。「正字正仮名」を用いるために何かを利用しているというべきである。その「何か」は往々にして nothing である。もっぱら「正字正仮名」の宣伝と,その反対者への悪口ではないか。「形式」と「内容(nothing も含む。まさに「無いよー」)」の逆転の例がここにもある。

(※)正字正仮名:国語を,現在流通している現代仮名遣い,新字体によってではなく,江戸時代に契沖によって整理された歴史的仮名遣い(正仮名)と旧字体(正字)によって表記すべきと主張する,病的な復古主義者たちの書き方。それに毒された人たちの文章はネットにゴマンと見出される。

またまた横道に逸れるけれども,「論」を期待して手にとった書物が「文学」だったりすると,私はどこを読み飛ばすかの戦略を最初の数頁で立てようとしてしまう。「... だが」とか「... にせよ」とか「... ではない」という断片が現われたら,その前のテクストをすべて破棄する。主語,目的語,述語「だけ」を探して読む。これで理解できない場合は,諦めて,読まなかったことにする。そのように「点と線」で組み立てられた言説によって,ダメな本かそうでないか判断するのである。まあ,今回は蓮實作品の初物でもないので悩みは少なかったわけだけど。

でも蓮實の文体を巡る私の印象は,蓮實その人の個性に対するというよりもむしろ,学者随筆風評論一般に対する嫌悪といったほうがよいかも知れない。学者随筆風評論文体というのは,学者が学問を離れつつその学問に関る話題について専門用語を鏤め,「学問性にこだわらず」に詠嘆してみせたりする「文学的な」文章である。「正確」を志すように見えて本質から遠ざかることにしか奉仕しない — よって知的な雰囲気を醸成する — 凝った冗長表現に満ちた晦渋な文体。

思うに,日本の有名な大学文学部先生の「有名」の根拠は,多くこのような学者随筆風評論の文学性にあるのであって,その学問的成果ではない。日本の文学研究者の評論は「文学的」独言である。学問性を問うものではないから。その専門の文学分野の「香り」を伝える「文学臭さ」が特徴である。だから「知的」にして「孤高」の随筆になる。「さすがー」と思わせる。ところが,学問的体系化への指向がないから,なにか本質とは別なものを掴ませられた,香り高い雰囲気に騙された気分になるのである。鞄の説明のために,凝りに凝ったブランド品を使っているに過ぎないのだ。

もちろん,そんな学者随筆風評論にも「文学的に」優れたものがないわけではない。森有正の『思索と経験をめぐって』(講談社学術文庫,1986 年)などは私の愛読書のひとつである。私の友人の言語学者は,「森有正はデカルトやパスカルの学問的研究成果で日本の知を高めるのではなく,フランスの知的雰囲気をフランスから伝えるエッセイで人気を獲得した。『雰囲気』で勝負する日本の知識人の典型だ」と腐した。私は森有正の文章が好きなので,この批評に少し傷ついたのだが,しかし,この指摘は日本の西欧文化吸収における学者随筆風評論に現れた脆弱性の本質を突いている。この友人に私は教えられたのである。彼は上記の「文学性」を「雰囲気」と言っているわけであるが。

私にとって嫌悪すべきは蓮實重彦という著者の「文体」でしかない。本書には家族の何気ないことばをめぐって考察するくだりがたくさんある。そこには深い学識を有する観察の鋭い知識人の姿だけでなく,家族を愛しそのことばに注意深く耳を傾けるひとりの人間が浮かび上がって来るのである。