木曜日朝,目黒の顧客との打合せの前に,目黒駅東口のマックでコーヒーを飲みつつ,会議に向けて気合いを入れる。それが私の習慣になっている。
昨日そのマックでちょっとしたトラブルに遭遇した。若い男ふたりが言い争っていた。店員が仲裁に入っていたが収まらない。そのうち,警官がやって来た。店員の証言からかひとりは解放されてもうひとりのほうが残された。短く刈り込んだ髪を茶色に染め,サングラスをかけ,乱暴な口のきき方をする 30 前後の男であった。チンピラもマックなんかに来るんだと意外であった。チンピラですらないのかも知れない。
警官が「ちょっと話を聞きたいので交番まで同行してもらえる?」と穏やかに要請するが,男はあと一時間待てと聞かない。「おまわりさん,オレ被害者だよ。なんで損害賠償の相手を逃がしておいて,オレにいちゃもんをつけるわけ? あ,そうそう,オレ,一時間後に衆議院議員・佐藤XXX(あの有名な小泉チルドレンのことだろう)と会う約束になってんだけどな。おまわりさん,こんなんじゃあ,遅れちまうじゃねえか。佐藤さんに電話してよ。あんたの所為で遅れるって」。警官はというと顔色一つ変えない。「わかった。なら交番でゆっくり聞こうじゃないか」。
さてその先がどうなったかは知らない。残念ながら,打合せの時間が近づいたのだ。世の中には本当にこういう愚にもつかないワルがいるもんだと久々に納得した。相手を脅かしたいのだろうが,自分の印象を悪化させることにしかならない見え透いた嘘をつく。警官もこんなのを扱い慣れているようであった。国家権力が取り締まるべきなのはこういう連中なのである。(横道にそれますが,ノリピーも悪いけれども,彼らにヤクを回して金を儲けている奴らを潰すことこそが,国家権力の第一に考えるべき使命というものである。)
世の中の犯罪者には少なくとも二種類いると思われる。ひとつは悪いと思いつつ何らかの事情で犯罪に手を染めてしまった者。もうひとつは生い立ちの過程で犯罪になんの抵抗も覚えなくなった者。そう,ヤクザのような人達。この男は後者の部類に入るようである。こういう奴らはもはや救いようがない。塀の向こう側で税金を費やしてでも三食食わしてやったほうが国益に適う。
8 月 15 日土曜日の朝日新聞・文化欄に『日本人の戦争観 多様』なる記事が掲載されていた。『日本人の戦争 — 作家の日記を読む』を巡って著者ドナルド・キーンに取材したコラムである。「わかったことは,日本人特有の戦争観といったものはない,ということです。戦中,米国の軍人の大半は日本人を狂信的だと思っていたが,日記を読むと実に多様だったことがわかる。現在,単一的にみえるイスラムや北朝鮮などの人々もみなが同じではない,ということを伝えたい」とキーンは語っている。
「良識」とはこういう態度のことをいうのだ。広く資料を読んで対象を理解しようとする姿勢。戦時中の日本人は一律に狂った民族だと欧米から思われていた。いま,核開発問題,ミサイル問題,拉致問題等々,北朝鮮の国民は日本人に同様の目で見られている。しかしこれらの問題の責任は北朝鮮政府・権力者にある。ネットで「北朝鮮を空爆しろ」と騒いでいる奴らは,マスコミの偏った報道・政府のプロパガンダに乗せられているだけなのに,自分の目で確かめようなどとはこれっぱかしも思わず,自分が正しいと思い込んでいる。そういう良識のない衆愚性こそが,民間人に対する無差別な空爆や原爆投下を正当化するのである。
※ 2010.9.13 付記
その後ほどなくして,ドナルド・キーン『日本人の戦争 — 作家の日記を読む』を読んだ。キーンは日本人の戦時中の思索は思いのほか多様だったと指摘するが,大東亜共栄圏への熱狂のウラにある戦前・戦中の日本人のメンタリティにはアジアに対する抜き差しならない蔑視が横たわっていたことを知識人の日記からうまくあぶり出している。私には,アジアの他国に対する蔑視という観点では戦中・戦後の日本人はじつに「画一的」であったと考えざるを得なかった。おそらく現在もそうだと思う。英文学者・吉田健一はキーンのよき紹介者で尊敬すべき文筆家であったわけだけれども,吉田の日記はこういう点でぞっとしませんでした。
どの著書だったか本書とは別のところで,ドナルド・キーンは,日清戦争が日本人の中国人に対する態度を尊敬から軽蔑に決定的に変えてしまったと指摘している。そうだ,昔の日本人は中国文化を尊敬してやまなかった。そしてそれは確かな素地だったと私は思う。それがいまやどうだろう。中国を「文化」からもっとも遠い劣等国であるかのような扱いをしている。戦争に勝つ負けるが国民に与える影響は測り知れないものなのだと再認識。私は中国文化に対する態度でそのひとの教養のレベルを計るようになってしまった。中国文化を軽んずる輩はまずもって日本の文化をも理解していないと判断するのである。