飯田進『魂鎮への道』

今夏も例年のように終戦記念日のあたりには,第二次世界大戦を振り返る特番,ニュース,新聞記事,反戦映画等々が流れ,戦争とは何だったのかという問題論が反復された。風物詩のような観がある。

私もそんな折り,丸善で飯田進著『魂鎮への道』を見つけた。これは 1997 年不二出版初版を岩波書店が文庫版として再編したものである。このように,岩波現代文庫は 21 世紀の新時代において新たに見直すべきテーマをきちんと見据えて,啓蒙的なモノグラフの力作を提供してくれる。豊下楢彦著『昭和天皇・マッカーサー会見』(2008 年),古関彰一著『日本国憲法の誕生』(2009 年)には,終戦直後と憲法制定のような戦後日本の原点について,教えられるところが多かった。

最近,安全保障問題,領土問題,靖国問題,田母神論文等に現われた歴史認識問題等々を巡って,日本はかつてないほどに右傾化している。小林よしのりの『戦争論』がバカ売れし,その安価な軍国的ヒロイズムに傾倒する若者が増殖している。YouTube には反韓・反中の煽動動画が溢れている。総じて,昭和の中国・東南アジア侵略・太平洋戦争を正義の戦いだったと大真面目に信ずる若者が急増しているように思われる。ネット・ニュースについても韓国・北朝鮮・中国に関る記事は,よいこと悪いこと重大事,社会面おしなべてどんなものでも,悪し様の軽薄で低レベルなコメントがすぐさま行列を成すのである。

私が彼らの言説にまったく真実性・現実性・思想性を見いだせないのは,ひとえに次の理由による。戦争に参加しその過酷な試練にさらされた人々の意見にまったく耳を傾けず,欧米列強の非道,東京裁判などの敗戦による屈辱,そこから来る被害者意識と安価な正義感,「武士道」を誤って理解した美学的・倫理的センチメンタリズム,「強い日本」のイメージを,ただひたすら誇張するばかりだからである。私は平和論・戦争論について戦争を体験した人の言うことしか信じない。戦争を知らぬ者に「突撃セヨ」と言われて誰が真に受けるだろうか。小林よしのり,田母神俊雄,潮匤人,渡部昇一 — こういう者たちがただの「煽動者」にしか見えないのは,究極,そういうことである。なぜもっと経験者のことばに耳を傾け,想像力を働かせることができないのか。

飯田進は帝国海軍の兵士としてニューギニアに送られ,戦後いわゆる BC 戦犯としてスガモ・プリズンに収容されていた太平洋戦争の生き証人である。本書はその体験,戦友の辿った悲惨な運命について,美化することなく,真摯に顧みた手記である。加害者としての非道を自問すると同時に,連合国軍側の非人道性(日本軍と同様の残虐行為,捕虜の虐殺,無差別絨毯爆撃,原爆投下)をも糾弾し,戦争というものの無惨を語る。

『魂鎮への道』についてあまりここで多くを語りたくない。是非読んでほしいということ。兵站を無視した大本営の無策によって戦友が大量に餓死する様を見,「殺すか殺されるか」の狂気のなかで自らは無実の非戦闘員を虐殺し,戦犯として死刑宣告を受け,焦土と化した日本を目の当たりにし,そうして当の大本営の責任者が戦後のうのうと生き延びた様を目にしたその人が,いまこの時代に何を思い,何を訴えようとしているのかを。思想とはそういうものである。

私は理解した。あの東京裁判とは,実際は戦争の現場を知らずに司令部で愚策を推進した軍事官僚(この現代に敷衍すれば,田母神俊雄のような幕僚たち)ではなく,責任者・閣僚トップ(石破茂のような防衛大臣)と眼に見える現場の兵卒とを死刑にすることで,戦争責任を問うたようなものである。日本は戦前から無責任な官僚に主導される国家だったのである。その構造はいまも同じ。許せますか?(小沢元民主党代表秘書逮捕事件でも,公設秘書や小沢さんの名前ばかりが世に叫ばれ,検察官僚という権力側にある者たちの固有名詞はまったく取りざたされない。この逮捕が横暴だったとしても検察官僚は国民によって裁かれることはない。「無責任」構造とはそういうことである。)

東京裁判が政府閣僚を A 級戦犯として,現場の兵士を BC 級戦犯として死刑台に送ったことで日本の戦争責任追及としたこと。これが戦後日本人の無責任体質を生み出したと著者は主張する。英霊のおかげで戦後の経済発展があるとするロマンチズムを著者は批判する。日本兵は多くがただ無惨に餓死したに過ぎず,経済発展も朝鮮戦争・ヴェトナム戦争という冷戦構造の特需の恩恵であって,日本兵のイヌ死とはなんの関係もない,と。そして大東亜共栄圏などは,アジアの人々に対する優越感のなせる自己中心的発想でしかなく,さらに戦後の経済発展を通してそのアジア人蔑視を引き継ぎ,戦犯裁判によって逆説的に責任なしとされた戦後日本人は,あの戦争は軍部による愚策だと他人事のように語り,一方では 2,000 万人以上とも言われる日本軍によるアジア人虐殺の事実を軽く受け流している,と著者は憤る。飢えて死んで行った兵士の無念,虐殺された現地の非戦闘員の無念,空爆で焼け死んだ一般市民の無念を,戦後 60 年たったいまも誰も晴らそうとしていないと訴える。

現代日本人ひとりひとりがあの戦争の責任を己のなかに問うこと。これなくして,自衛隊も改憲論もクソもないと著者は主張する。これこそが無駄死した戦友への真の鎮魂だというのである。