文は人なり?

最近,コンピュータ関係書籍の文章について触れた。ウィンジェルの音楽の文章術も採り上げた。「文学的」文章への指向をこっぴどく腐したりして,読んでかちんとくる人もいたと思う。

そこでもうひとつ。私は「文は人なり」(ビュフォン)ということばが嫌いである。それは,この言説には生身の人間の理解を阻んでしまう危険性があるからである。このことばは — 書かれている思想から自律して — 文章の書き方・表現が,知らず知らずその人となり,性格を示す,という意味で使われることが多い。それを「信じている」人が結構いるようである。文章の個性を人の個性と勘違いしているらしい。

確かに,誤字・脱字だらけであったり,論理展開の一貫しない文章を読まさせられたりすると,「これ書いた人,バカじゃね?」というような印象を抱いてしまうかも知れない。でも,それは文章を一定時間内でシェープアップできていないだけかも知れないし,書いた本人の頭の良し悪しを本当に断定できるかというと,無理がある。要するに,その印象は「偽」である。そんな文章について恥じるべきなのは誤字・脱字,論理破綻であって,「人」ではないのだ。それを書いた人よりも「これ書いた人,バカじゃね?」と思う「文は人なり」的人間のほうがじつはよっぽど「バカ」かも知れない。そうでないかも知れない。「文」は単に書かれたものであって,「人」ではない。そもそも論理のはじめに誤りがある。芥川龍之介は,人となりが文章に出てしまうという意味なら「人は文なり」ということか,みたいな彼一流の皮肉をどこかで書いていた。身なりや容姿でその当人を判断するのと同じくらい,「文は人なり」は危険なのである。

エロ小説ばかり書く作家はエッチで俗悪な人間だろうか? レイプ殺人を扱った小説の書き手はレイプ犯罪者の予備軍であろうか? 「文は人なり」は本質的にそういう直線的な人間理解を主張しているのである。だから私はこのことばに世の偽善者と同じような嫌悪を覚えるのだ。異常なものを読む人が異常だとは限らないように,異常なものを書く人だって異常人格の持ち主だとは限らない。人間はそんなに単純には出来ていない。(イラクやアフガニスタンでどんな非道が行われていようとも何の行動も起こさないのに,世界を滅ぼすとばかりにポルノの悪影響を騒ぎ立てる人がいる。世の中わかりません。)

じゃあ「文体」ってなんなの? その意味はどこにある? と反論する人がいるだろう。「人となり」ではない「何か」でしょう。